上部に六地蔵を刻み、竿(塔柱)に寛文4年(1664)甲辰9月とと刻まれている。高さ2.4mの堂々とした作りは、江戸時代初期のものとして立派である。
石幢は六地蔵信仰などと結びついて各地に建てられ、礼拝の対象とされてきた。
左から文政7年(1824)の南無阿弥陀仏名号、地蔵尊、馬頭観音2基
左から安永3年(1774)の廻國供養塔、馬頭観音3基
尼堂墓地の石幢
永田徳本は三河国に生まれ、医師を業とし、駿河・甲斐・相模・武蔵などの諸国を巡り、甲斐にいた時には武田氏につかえたこともあったという。権力を恐れず、貧しさに負けず、庶民を救うことに力を注いだ。薬草の権威としても知られ、一服16文(18文ともいう)で薬を売り歩き、病人の治療に当たったという。そのことから医聖とも呼ばれている。いつのころからか諏訪の地に来て、東堀に住み、寛永7年(1630)に118歳で亡くなったと伝えられる。
六地蔵尊
永田徳本の藍塔(中央)