今井地区は、地勢上往古より道の存在が想定されるが、史実の上に出てくるのが、鎌倉時代の街道であり、戦国時代武将兵が往来した道であり、江戸時代の中山道である。
 徳川家康は、関ケ原戦勝後、全国統治のため街道を制定し、慶長6年(1601)に東海道を開削して、翌慶長7年本州中部を横断する中山道を開削した。中山道は、当初此処から東方の東堀から川岸を経て木曽へ通じる道であったが、諸事情により12年後の慶長19年(1614)に塩尻峠越えの道を開削した。この碑の前の道が中山道である。道幅は2間2尺(約4.24m)であったが、昭和に入り交通事情にて拡幅されている。
 徳川幕府は、江戸防衛の為、街道の要所に多くの関所を設置して、特に入鉄砲・出女・咎人等の検察に当たった。高島藩内に関所は設置されていなかったが、藩では塩尻峠口の交通の要衝に口留番所を設置して、諸事の検察に当たった。また、当時は藩毎の領国経済であり米を中心とした穀類の流出や搬入が、藩の経済に大きい影響を与えたので、穀留番所を設置して穀類の流通を監視させた。この今井口の番所は口留・穀留の両面の検問を司っており、此処を通過するには、前もって許可の手形が必要であった。番所には高島藩の出役が交替で勤め、添役として村役人の名主や年寄が当たった。
 番所は、当初、番小屋を造り検問に当たっていたと伝えられており、その後、家作が進み村役人宅に常設された。番所の建物は、寛政元年(1789)2月類焼に遭い再建されているが、現在の建物は、元治元年(1864)に建築されたもので、番所の建物として、諏訪地方に現存しているのは、此処今井だけであり、当時の面影を残している。
 (岡谷市美術考古館長)

今井番所跡碑

今井番所跡