洗馬宿は慶長19年(1614)中山道が牛首峠から塩尻峠に変更となったとき、中山道と北国脇往還(善光寺街道)との分去れの宿場として新設された計画集落である。
南北の出入口は鉤型に、宿内は湾曲して造られている。用水は尾沢川の水を引き入れ、宿の南で2筋に分け東西の屋敷裏を流している。屋敷の間口は3間を基本として宅地の奥に畑が続く細長い屋敷割が特徴で、現在もこの形はあまり崩れていない。
本陣、脇本陣、問屋場のほかに荷物貫目改め所も置かれ、分去れに位置する洗馬宿の重要性が伺われる。
戸数は、初め100軒余、幕末には150軒程あって、大きな旅館を持つ宿として賑わった。本陣、脇本陣の庭園は 「善光寺道名所図会」 の中で 「中山道に稀な」
と紹介された名園であったが、明治42年、鉄道の開通によって洗馬宿の敷地となり失われた。
また、昭和7年の洗馬大火では宿場時代の建物が殆ど焼け落ち、今はその面影を見ることが出来ない。
しかし、火事後拡幅された道路の両側には昔を偲ぶ歴史の跡がそこかしこに残っている。
(洗馬区)
洗馬宿本陣跡標柱と説明版
中山道洗馬宿説明