江戸時代の物資輸送は、「川」 を利用した水運が盛んに行われました。「川」 は当時の輸送にとても重要な役割を果たしていたのです。この水運の基地が伏見にありました。それが 「新村湊」 です。ここからは、油・みそ・たまり・塩・酢・砂糖・みかん・いわし・にぼし・こんぶなどの食料品から、たたみ・屏風・たんす・下駄・ふとんなどの生活用品が陸揚げされていました。一方、お茶・瀬戸物・麻・たばこなどの地元生産品が船積みされ、各地へ運び出されていました。今では竹藪の茂った崖が残るのみとなっていますが、当時は伏見宿にも隣接し、とても活気のある湊だったことでしょう。

 文政7年(1824)、伏見宿の人々を騒然とさせる出来事が起こりました。なんと、珍獣 「駱駝」 がやってきたのです。もともとこの駱駝、幕府に献上される目的でペルシャ(現イラン)から連れてこられたのですが、幕府に献上を断われたため見世物興行師の手に渡り、各地を見世物としてまわりました。そして中山道を旅する途中、興行師が伏見宿にさしかかった辺りで病気になり、3日間ほど逗留したのだそうです。その時の記録が 「御祭礼当人帳」 に残されています。それによると、近隣の村々から駱駝見物のため2日間で2,000人以上の人が集まってきたのだそうです。駱駝を初めて見た人たちは、どんなに驚いたことでしょうね。

 慶長5年(1600)、天下統一を果たした徳川家康は、いち早く街道の整備にとりかかり、慶長7年(1602)には中山道を整備するとともに、各所に宿場を設けました。ここ伏見宿は、慶長7年(1602)設置の御嶽宿に遅れること約90年後、土田宿の廃止に伴って整備されたといわれています。ところで、中山道沿いには見事な松並木があり、ここ伏見宿界隈でも立派な松がたくさんあったそうです。しかし、戦時中に松の根から採れる 「松根油」 が航空機などの燃料になるため、松並木は全て伐り倒されてしまったそうです。写真は伏見宿の東、現在の顔戸のあたりにあった松並木です。

東屋に架かる 「新村湊」 説明

東屋に架かる 「駱駝」 説明

東屋に架かる 「中山道の松並木」 説明

一本松公園

道標

一本松公園の行灯

右御嵩   左兼山八百津