浄覚寺は元々は伏見山田庵ヶ洞(寺洞)に天台宗の寺として建立されていたが、慶長年間に現在地に移築、真宗大谷派、東本願寺末寺となった。以来血脈相承として続き、現在で21世である。現在の浄覚寺本堂は昭和50年に再建されたが、その工事のため地下1mほど掘ったところ掘立柱の跡が発見され地下から食器類の破片などが出土した。
 旧本堂は元禄年間に建立され300年ほど経過し老朽化し現在の本堂が再建された。旧山門は寛政年間の建築で250年ほど経っていたが今の門に再建された。
 伏見の地名は、金山城主として京都から来た斎藤大納言正義が城山より南を眺めた景色が京都の伏見と似ているところから同じ伏見と名付けたといわれている。金山城は別名烏峰城ともいわれていて当時山頂に烏が群生していたのでその名が付けられた。伏見は早くから開けた地で中山道が通っていたことは周知の事であろう。
 伏見小学校の南、浄覚寺(寺領地)に岐阜県重要文化財指定の東寺山古墳がある。前方後円墳でこの形はあまりなく貴重なものである。約1600年前に造られたもので、この地方の豪族の墓であると言われている。可児市中恵土の長塚古墳と共にこの地方の有名な古墳と言われている。古墳を囲んで周囲には土居がめぐらされていた。
 次に7世紀後半大化の改新の後に伏見東町に寺が建立された(寺名不明)。現在は伏見廃寺と名付けられている。その寺の瓦が発掘され当院に保存されている。この時代朝廷が寺の建立を進めていたようである。美濃国分寺で発掘された瓦とよく似ていて寺の規模も多きかったと想像される。
 また伏見は中山道の宿場として栄え、特に元禄時代は大変賑わった。特に伏見の宿場は花街で旅人の憩いの場であった。寺の隣が本陣で緊急の場合は寺は逃げ本陣だったとも言われている。
 寺の古文書によると宝暦年間宿場を通過した参勤交代の諸大名や東西本願寺門跡の通過なども記されている。圧巻は水戸天狗党の浪士武田耕雲斎や孝明天皇の妹君皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁される時中山道をお通りになった。大変な賑わいであった事が記されている。
 歳月は経て昭和27年3月28日には昭和天皇の皇后、香遵皇后の妹君、本願寺の裏方智子様当院へご出向きいただき寺族、門徒に親しくお言葉を賜り一泊され本山へお帰りになられた。

塀に貼られた由緒書き

鐘楼から本堂俯瞰

古池や 蛙飛込む 水の音

嘉永4年(1851)の芭蕉句碑

徳川光友公夫妻菩提所碑

十三重塔

霊安堂

鐘楼

浄覚寺本堂

浄覚寺本堂

五輪塔群