応仁の乱(1467-77)の頃、中央の政権をも揺るがすと言われた武将が、ここ顔戸の地で活躍していました。その武将が歴史に今も名を残す斎藤妙椿その人です。
 妙椿は、ここ顔戸の地に東・西・北の三方に戦いに備えるための豪壮な空堀と土塁を設け、南は可児川の自然の流れを防御手段に利用した平城 「顔戸城」 を築城し、東美濃の守りの拠点としました。
 城の規模は、東西およそ150m、南北およそ167mの規模を有し、空堀と高く盛られた土塁に囲まれた内側に館を構えた平坦面が有り、豪壮な中世平城の姿を今に伝え 「構」 と呼ばれ、東美濃でも有数の平城としてその名を馳せています。
 妙椿はもとは八百津の浄土宗善恵寺で僧侶としての修行をしていましたが、長禄4年(1460)守護代を務めていた兄利永が世を去ったため仏道を捨て、政界に乗り出し頭角を現した人物です。
 (御嵩町・御嵩町観光協会)

顔戸城址由来碑

空堀の遺構が残っている