伝説によれば、鎌倉時代の建久、正治の頃(1190-1200)頗る凶暴で悪行三昧の男が次月の鬼岩の岩窟に住み着き、乱暴狼藉を極め、住民を大いに大いに悩ませました。
 この者は西美濃不破の関の生まれであたため、住民はこれを 「関の太郎」 とか 「鬼の太郎」 と呼び怖れていました。そこで正治元年(1199)人々はこの地の地頭交告源吾盛康にこの惨状を訴え退治してもらうことにしましたが、盛康は京の地にあり、おいそれと帰ることが出来ませんでした。そこで自分の家臣4名に太郎の退治を頼み御嵩の地に帰しました。ところが、なかなか太郎を討つことができなかったため、蟹薬師に祈願したところ、太郎が女装し祭礼に来るとのお告げがあり、そのお告げのとおりに4月1日の祭礼の日に女装した太郎が現れ、それを捕らえ首を切ることができました。
 4人の者は太郎の首を首桶に入れ、検分のため都へ運ぼうとしたところ、急に首桶が重くなり一歩も進むことができなくなりました。
 すると首桶を縛っていた縄が切れ、中から首が転げ落ち、落ちた首も動かすことができなくなったため、それをこの地に埋めました。
 これが 「鬼の首塚」 の由来といわれています。首塚のあるあたりを 「桶縄手」 と呼び、木曽街道膝栗毛の著者十返舎一九もこの地のことを詠んだ句を残しています。
 桶縄手 今もその名を朽ちさりき 塩漬けにせし 鬼の首かも
 (御嵩町・御嵩町観光協会)

鬼の首塚(天神塚)町重文説明

手水石

鬼首塚碑    関太郎首塚

鬼首塚遺跡碑

「左○日大塚」 と読めるが

草枕 むすぶまもなき うたたねの ゆめおどろかす 野路の夕立

子規句碑

中児童館の敷地にある標柱

標柱から20m程先にある道標

「左庚申大塚道」?良くわかない