慶長5年(1600)9月家康公関ケ原の陣上洛の際、当山に立ち寄られ開山叡誉上人と話し合われた時に使用された石で、もと境内西の小山の上に有ったものを、明治32年(1899)に現在地に移された。
 「家康の 天のしる重き身の しばしいこひし 跡ぞこの
石」 (読み人知らず) の一首が伝えられている。(説明板より)

客殿

大日堂の大日如来

大日堂

  天保13年(1842)10月幕府の検地に反対した甲賀野洲粟田の農民一万余人は一揆を起こして抵抗した。その指導者11名は天保14年3月5日江戸に送られ処刑された。翌弘化元年(1844)9月当山第17代光誉上人は刑死者の霊を慰め、その冥福を祈らんが為に水口城主の許可を得て此の五輪塔を建立し、之を無縁塔そ称して亡き霊を弔う。明治2年大赦の命下って刑死者の名を現し甲賀騒動義民の霊位五輪塔と称し毎年10月追弔会を修行す。(説明板より)

南無阿弥陀仏名号碑

水子地蔵尊

文化5年(1808)の常夜燈

甲賀騒動義民の五輪塔

鐘楼

徳川家康の腰掛石

手水舎

地蔵堂の地蔵尊群

地蔵堂

六地蔵尊

大徳寺本堂

大徳寺山門

本堂に掛かる家松山の扁額

 大徳寺と徳川家康との縁は深く、開山の叡誉住職が家康の重臣本多平八郎の伯父だった関係から、家康は上洛に際して水口に宿泊し、家康の家の字と松平の松の字をとって家松山の山号を賜り、また第二世叡誉のとき大徳寺の寺号や香木、寺領等を寄進している。大徳寺の寺紋は、徳川家の定紋である葵を入れた立ち葵であり、山門には徳川家紋の三葉葵が刻まれている。また、石垣は小堀遠州の手法が見られると伝えられている。(由緒書より)