天保13年(1842)10月14日から16日、野洲、甲賀、栗太三郡の百姓が幕府の不法検地強行に対し蜂起した天保一揆である。 この首謀者11人が最高裁の江戸送りとなる。
 針の文五郎は十万日検地日延べ書持参の罪であった。 一番駕籠は文五郎で道中3人が死亡し、江戸の白洲で8人が拷問にあいながら不法検地を訴え続けた。
 しかし、全員獄死した。 針の文五郎は人一倍正義感の強い指導的立場の精農家であった。天保14年4月18日死亡行年50歳
   湖南市観光協会

公民館脇のおやすみ処に掛かる 「ようこそきづな街道(東海道)へ」 の看板

針文五郎顕彰碑説明

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