稲川端に立つこの石碑は稲川碑と呼ばれており、石碑の下からは今も清水が湧き出ています。 江戸時代には東海道を行く旅人が喉を潤していました。 碑文によれば、正保4年(1647)水口城代の山口重成
(即翁了心ともいう) が土山宿と水口宿の間には飲み水なく旅人が困っていたため、 稲川沿いに井戸を掘って水を湧き出させたと言われています。
この碑文は延宝4年(1676)、先人の功績を讃えるために建てられたものです。 また、村の言い伝えでは源平合戦のさ中、平景清が敵の矢に目を打たれ、東海道まで落ち延びた折、稲川端の清水で目を洗うと、たちまち血涙が止まったとのことです。
いつしか村人はこの水を景清の目洗い水と呼ぶようになりました。
作成:甲賀市市民協働事業 今郷好日会
お経を埋めたと伝えられる小高い墳丘状の塚で、鈴鹿山経塚とも呼ばれています。 経塚は一般的に、平安時代の末法思想とともに発展し、経典を経筒に納めて埋めたり、江戸時代には小石にお経をかいた一字一石経などを埋めることが流行し、
個人の祈願や追善供養、積徳の行として行われました。 この経塚は、延暦20年(801)、このあたりに化け物が出没したため、大般若経を読んでこれを鎮め、その後、村人がこのお経を土中に埋めて塚としたと伝わります。
作成:甲賀市市民協働事業 今郷好日会
稲川碑
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経塚