鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで 「横田川」 と呼ばれてきました。
 伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも 「横田河橋」 の名が見えています。
 江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。
 そのため、他の 「渡」 と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に 「渡」 の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。
 これによると、3月から9月の間は4艘の船による船渡しとし、10月から翌2月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。
 野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。
  「渡」 の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人で大いに賑わいました。

 横田橋の名は、寛正2年(1461)5月24日の室町幕府奉行人文書(山中文書)に、「酒人郷横田河橋」 として見えるのが早く、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていたことが知られています。
 江戸時代には、東海道の 「渡」 のひとつとして幕府の管理下におかれ、渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。
  明治24年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。 この石垣は当時の橋台の一部です。 その後、昭和4年には下流に橋が移され、同27年には国道一号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。

 旧幕時代、横田川の渡しは年中橋を架けることは許されなかった。 そこで、河水の少ない10月から2月までは水の流れている所に土橋をかけ、3月から9月までの7ヶ月は四艘の小舟で通行していた。 しかし暗夜には方向が定まらず危険であった。 当社は渡しの安全のために村人が文政2年 「常夜灯」 の建立を発起し義金を募り文政5年8月に竣工すると同時に水上交通安全の神様である金刀比羅宮をこの場所に勧請し、渡しの安全を祈念したものと推察される。  平成7年3月吉日 大字泉

金刀比羅宮

横田渡の歴史

当時の橋台の石垣

 この巨大な石燈籠は文政5年(1822)増加する旅人の目印となるよう、泉側の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたものです。 その高さは10.5m、燈火を灯す火袋は大人も通れるほどで、道中でも最大級のものとされています。 建造には多額の費用を要したため、基壇には多くの寄進者名が刻まれています。 明治以降、水害によって一部形状を損ないましたが、その交通史上の価値は高く、水口町の文化財に指定されています。

冠木門

東屋

東海道横田渡説明

明治時代の板橋

文政5年(1822)の常夜燈

横田渡常夜燈説明