江戸時代、水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏25000石の城下町として地域の政治、経済、文化の
中心として発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のマチ水口の象徴であります。
曳山の登場は享保20年(1725)のことで、このとき9基の曳山が巡行し藩邸にもぐりこんで賑わいました。その後、一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数30基余りに達したと云われています。
当時の曳山は 「二層露天式人形屋台」 という構造をもち、複雑な木組み、精緻な彫刻、華やかな幕を飾り付けるとともに、屋上に 「ダシ」 と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組み上がったままで各町内に建てられている
「山蔵」 に収納されています。
天王町の曳山蔵
曳山の由来
近江鉄道の東海踏切