天保13年(1842)10月14日、幕府の命によって検地を始めた勘定役市野茂三郎以下40余名の苛酷な測量に対して農民の怒りは大きかった。
 三上村の庄屋土川平兵衛や甲賀郡の各村の庄屋たちも相談し合って農民らと力を合わせその検地を廃止させた。「十万日の延べ」の証書を得た一揆の農民は大声をあげて喜んだ。その後、事件の中心人物としての80余名の取り調べは厳しかった。
 ことに土川・田島・黄瀬らの庄屋に加えられた拷問は惨酷そのものであった。しかし、調べられた者たちは一人として白状しなかった。獄舎中で次々と死んだ者もあったが首謀者としての11名が江戸送りとなった。
針の文五郎、油日の惣太郎、上野の九兵衛、氏川原の庄五郎、深川の安右衛門、岩根の弥八、松尾の喜兵衛、杣中の平治、宇田の宗兵衛、市原の治兵衛、三上の平兵衛らの11人は檻に入れられて江戸へ送られた。
 街道には農民の多くが涙を流しながら見送り、別れを惜しんだ。うち江戸へ着いたのは8名であった。
 遺体はもちろん満足な場所へ埋めなかった。死ぬまで市野不法を訴え、庶民の正しさを申し立てたという。
 その後、明治となり罪人の名を大赦し、相続を認めた。明治31年5月20日に「天保義民」の碑を現在の地に建立した。その文字は巌谷修氏の書である。高さ10mの人造石でその費用は2,900円であった。毎年10月15日にはこの碑前で郡町村が主として義民の追悼慰霊の例祭が催され、関係の遺族の多くが参列される。奉納相撲も催される。

天保義民説明

天保義民之碑

入口の金網フェンス

天保義民の丘碑説明

天保義民の丘碑

新海道道標

 天保13年(1842)10月に旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の一万数千人の農民が結集し検地十万日日延の承認をさせるという 「農民一揆」 を起した、その時農民が手に取った鍬、鎌を形どり、背の矢印は竹槍、中央の溝は農民の地と汗と流れを表している。
 全体としては、基礎石を農民に見立て農民の努力の賜で虹の石(希望の架け橋)が架かったものである。

 平安時代には東海道として利用されたが、江戸時代に入り東海道を三雲から別れて伊賀に至る道で、寛保年間(1741-43)には杣海道とよばれ、明治時代に入って 「新海道」 と呼ばれた。

 この碑は、明治31年(1898)築の人造石製の10mを超える建物です。
 耐震補強は出来ていないものの、今すぐ倒壊の恐れはありません。扉のチェーンを外して碑の近くで見学頂く事が出来ます。
 しかし、震度5を超えるような地震が発生した時には、倒壊の恐れがあります。
  万一、地震発生の際は、倒壊の方向が不明なため、すぐ碑から10m以上(この案内の位置が碑から20mです)安全な場所まで避難願います。 湖南市 甲賀市