水口は道によって開け、道によって発展した所です。
 この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。
 しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正13年(1585)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城 (水口岡山城) を築かせてからのことです。 この時山麓の集落は城下町となり、城主三代、15年の間に市街地の基礎が形成されました。 関ヶ原合戦翌年の慶長6年(1601)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、 直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道50番目の宿場町として歩みました。
 宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客の通行輸送、あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は大いににぎわい、その町並みは東西2キロ余りに及びました。 このうち東部市外の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。 水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保14年(1843)の記録によれば、家数692 (うち旅籠屋41)を数え、この地に小規模ながらも水口藩の武家地が加わり、甲賀郡の中心としての地位を占めました。
 このような発展を受けて、著名文人の滞在があったり、享保年間には水口神社の祭礼に曳山が巡行するようになりました。 また当時の宿場の名物としては、広重の浮世絵でも知られる干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等が知られています。
 なお、この碑のある場所は当時の本陣の跡です。 水口町

水口宿本陣跡碑

東海道水口宿説明

明治天皇聖跡碑

明治天皇聖跡碑

 この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。
 本陣とは、大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設でこれを補助するものとしては脇本陣があり、水口宿はその両方が宿の東部の作坂町にありました。 本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。
 この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治2年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。

御中食  明治元年旧9月22日
御小休  明治元年旧12月20日
御泊輦  明治2年旧3月8日

明治天皇行在所御旧跡碑