別名を伊奈川観音又は橋場観音といい、口伝によると300余年前須原の一老父が馬の沓を作り商いをしていた。
或日一人の威厳ある馬上の侍が馬の沓を求めたが、折悪く片足分しかなかったので、その旨を伝え、不足分を早速作り後から追いかけて現在の橋場の入口付近で渡した。侍は喜んで代金を渡そうとしたが、老父はその侍の尊容に打たれて代金を辞退したところ、傍らにあった木片を取らせ、馬上で
「馬頭観世音」 と書いて渡し、「必ずこれを信仰せよ、御利益があるであろう」 と云って立ち去ったと云う。俗にこれをコッパ観音とも云う。老父はそれを家に持ち帰り、神棚に安置したところ光明を放ったので、恐れを抱いて橋場の岩出山の岩間に祀ったところ、一層赫々(かくかく)と光明を放ったので、忽ち近郷近在の評判となり来拝するものが多くなったので、近隣の助力を得て、この木片に観世音菩薩と刻み、京都まで出掛けて妙心寺の名僧愚堂国師の開眼を受けて持ち帰り、一宇を建立して、奉安したところ信仰する者多く、縁日(1月17日、2月の初午)には遠くから大勢御詣りに来られる様になったようです。
毎年1月17日初観音縁日、2月の初午縁日は午前10時半より法要を行っております。福ダルマ、お守り、お札の頒布も行います。
(大桑村須原定勝寺)
岩出観音は、木曽街道69次版画の英泉画 「伊奈川橋遠景」 の背景に描かれた堂として有名で、馬産地木曽の三大馬頭観音として庶民の崇敬を受けていました。
橋場集落は、木曽三大橋の一つ伊奈川橋の番をするために置かれたのが始まりと云われています。
懸崖宝形造りの清水寺に似た現在の堂は江戸中期のもので、堂内には山村家の絵師 「池井祐川」 の絵馬をはじめ、数多くの美しい絵馬が奉納されています。特に
「木曽式伐木運材法」 や 「刈手」(干し草刈り)の情景を描いたものは、当時の庶民生活を伺う上で重要なものとなっています。
常夜燈
岩出観音由緒
岩出観音由緒
馬頭観音、地蔵菩薩
(右から2番目の馬頭観音は弘化2年と刻まれている)
舞台
宝形造の本堂
段上の岩出観音
庚申塔、地蔵菩薩、馬頭観音、南無阿弥陀仏名号碑ほか
三十三所観世音菩薩