江戸時代、日光東照宮には毎年4月に朝廷からの使いが派遣されていた。これを日光例幣使という。
例幣使は、京都を出発し中山道を下り上野国倉賀野で玉村への道をとり、下野国楡木(にれき)で壬生道、同国今市で日光道中に入った。例幣使道(街道)は、一般的に倉賀野から楡木までとされる。
この辻には、常夜燈と道しるべ及び閻魔堂がある。
常夜燈の基台には、四面にわたり各地の問屋・旅館・著名人312名の寄進者の名が刻まれており、この中には相撲関係者も見られ、長く大関をつとめた雷電為右衛門や鬼面山与五衛門など38名も含まれている。
勧化簿という資料によれば、上野国那波郡五料(玉村)の高橋光賢という人が、若き頃の生活を反省し、常夜燈建設を思い立ち、自己の財産を投げ出し、その不足分を多くの人から寄進を仰いで建立したとある。
常夜燈
正面「日光道」 右側面「中山道」 左側面「常夜燈」
裏面「文化十一年甲戌(1814)正月十四日高橋佳年女書」
総高373㎝、台石高67㎝、灯籠高305㎝、灯籠屋根幅105㎝
道しるべ
正面「従是右江戸道左日光道」
裏面「南無阿弥陀仏亀涌水書」
総高172.8㎝。台石高8.8㎝
石柱幅一辺33.7㎝
(平成8年3月高崎市教育委員会)
例幣使街道の常夜燈及び道しるべ説明
例幣使街道と倉賀野常夜燈説明
道標
文化10年(1814)の道標を兼ねた常夜燈
従是 左日光道 右江戸道
中山道は、倉賀野宿東、下の木戸を出ると日光例幣使街道と分かれる。そこには、道しるべ、常夜燈、閻魔堂がある。
道しるべには左日光道、右江戸道とある。ここから日光例幣使街道は始まる。
日光例幣使街道は13宿中、上州5宿(玉村・五料・芝・木崎・太田)野州8宿となっている。正保4年(1647)に第一回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867)の最後の例幣使派遣まで、221年間、一回の中止もなく継続された。また、この常夜燈は、県内では王者の風格をもっており、文化10年(1814)に建てられ、道標の役割も果たしていた。
(高崎市・㈳高崎観光協会)