上武二州の国境を流れる神流川は往昔より荒れ川で、出水毎に川瀬道筋を変え、夜道の旅人や伝馬人足の悩みの種であった。新町宿本庄宿の役人達は兼ねてより通行人の難儀を憂え、川の両岸に灯籠を建て毎夜火を点じて通行の安全を計ろうとした。新町宿ではほとんど10年間も建設費用を蓄え、文化12年(1815)に灯籠を建立するに至った。偶々高瀬屋に泊まった俳人一茶の12文寄進した話は七番日記に誌されて余りにも有名である。時の人々は見通灯籠と親しみ呼んで多年その恩恵に浴したのであった。
この灯籠には江戸随一の詩人と自他共に許した大窪詩仏の手に成る常夜燈の字を彫り、当時好学大名と称せられた鍋島閑叟候、安中の板倉節山候に知遇を得た桑原北林の金毘羅大権現の手跡を刻んである。北林は児玉町在の吉田林村の出身で漢学の大家である。更に新町宿の歌人田口秋因の
灯の光にさすか行かえの人よ夜なよな迷はすもかな
と一首を添えて文学の香り高い灯籠として中山道の名物になっていた。然し時流の転変は激しく明治24年に高崎市大八木村へ移されてしまった。その後、新町の有志達は、之を惜しみ幾度か復帰の交渉を重ねたがその熱意は報いられなかった。
多野藤岡ライオンズクラブは創立50周年の記念事業として見通灯籠の再建を企て、灯篭を原形に復し、再び交通安全のシンボルとし、かつは古き新町宿を偲ぶべく原地に近い国道17号線の要所に建立して長年の要望を実現された。ああ!遂に町民の夢は見事に達成されたのである。威容新たに甦ったこの灯籠は永く文化財として後人に仰がれ、交通難時代に在っては交通安全の使命を遺憾なく発揮してくれるであろう。
今、請わるままに見通灯籠再建の経緯を記しライオンズクラブの壮挙を称え、之を後世に伝えるものである。
見通灯籠(レプリカ)
見通灯籠再建之記碑