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中山道   (上尾~岡部)

上尾から岡部までは、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿、深谷宿とあり、約45kmの道程である。

平成26年4月9日(水)☀  上尾~行田  22.5㎞   
退職後、初めての街道歩きとなる。時間が早いので電車は空いているかと思いきや意外と通勤・通学の方がたくさんいる。7時30分に上尾に到着し、駅前で蕎麦をかき込んでいざ出発となった。

庚申塔 彩の国平成の道標 紅花仲買問屋・須田家 庚申塔
上尾駅東口から出発し、図書館西交差点の角地に庚申塔が建っている。
延享2年(1745)の青面金剛像・二鶏・三猿が浮き彫りにされた庚申塔である。
この手前に中山道の道標が建っている
上尾宿の京口には、彩の国平成の道標が建っている。
案内板の屋根の上には鐘馗様が乗っている。鐘馗は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾ったり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする。

久保西交叉点で、右側に森があり立派な塀に囲まれた屋敷がある。
武州紅花仲買問屋であった須田家である。地図上ではこの奥に須田倉庫という大きな建物がある。
街道に面して黒い板塀が続いている。
上尾から桶川に入り、富士見通り交差点のやや手前右側に庚申塔がある。
明和6年(1769)の庚申供養塔と刻まれている。

石地蔵 旧跡木戸址 藤倉家 武村旅館
富士見通り交差点を越えて右側の柿ノ木屋クリーニング店の店先に小さな祠があり、中に石地蔵が安置されている。 富士見通り交差点の次の交差点角に旧跡木戸址の石柱が建っている。
桶川宿の江戸側の木戸のため南の木戸と呼ばれている。
南木戸手前の藤倉家屋敷屋上には鐘馗様が睨みをきかせいる。
昭和6年(1931)に建てられ、魔除けと同時に火除けとして屋根の上に鍾馗様を祀っている。
藤倉家の先左側に格子戸のある日本家屋が建っている。
中山道の宿場町であった桶川宿の旅籠の姿を今にとどめている貴重な建物ということで、国登録有形文化財になっている。
桶川宿では天保年間(1830~43)に36軒の旅籠があったという。

浄念寺 島村老茶舗 小林家 矢部家
武村旅館の先左側に浄念寺の仁王門が見える。
入って行くと朱塗りの仁王門は、楼門にもなっていて、この鐘は宿内に時を告げていたという。
門には、口を開けている阿形像、閉じている吽形像の仁王像が左右に立っている。
境内には、板石塔婆、石仏、石塔が残っており桶川宿の信仰を集めいていたことが分かる
桶川駅前交差点から右側4~5軒先に嘉永7年(1854)創業の島村老茶舗が建っている。
2階の格子戸は趣がある。
桶川駅前交差点を越えて左側に元旅籠の小林家が建っている。江戸時代末期ごろに建てられたものである。
発見された棟札から、穀屋吉右衛門が 「子三月吉日」 に建てたことが分かる。文政11年(1828)、天保11年(1840)、嘉永5年(1852)のいずれかの 「子」 の年と考えられている。
小林家の向かいは、元商家で蔵造りの矢部家が建っている。
明治前期に建てられたもので、川越の蔵造り商家を建てた棟梁の手によるものと伝えられている。
矢部家は、屋号を 「木半」 といい、主に穀物問屋を営んでいた。また、紅花の商いも行い、桶川の稲荷神社にある 「紅花商人寄進の石燈籠」 に刻まれた24人の紅花商人の中に名を連ねている。

桶川宿本陣 桶川宿の石柱 大雲寺 木戸址
矢部家の直ぐ先右側のいけだ花店の横に桶川宿本陣遺構の標柱が建っている。
標柱の奥には、明治天皇桶川行在所の石柱が建っており、明治天皇は北陸行幸の際、ここに宿泊している。
また、文久3年(1861)11月13日には皇女和宮が、ここに宿泊している。
桶川本陣の先左側の駐車場の角に桶川宿の石柱が建っている。
この一角には、旅人のための手洗い処があり、トイレの建物前には、お茶博士・辻村みちよ顕彰碑が建っている。辻村みちよ博士は、緑茶の中にカテキンが含まれることを世界で初めて発見した研究者で、日本初の女性農学博士となった人である。博士は、桶川市に産まれ、学童期を過ごした。
桶川宿の石柱から直ぐ左側の東和銀行桶川支店の先の細い参道を入って行くと大雲寺が建っている。
曹洞宗龍谷山大雲寺といい、弘治3年(1557)の開山と伝わる。墓地には本陣を勤めた府川家や宿場縁故の家々の墓がある。境内には、立派な鐘楼や多くの石仏が並んでいる。また、夜な夜な寺を抜け出して女郎を買いに行ったという伝説の女郎買い地蔵もある。
うどんの今福屋の前に木戸址の石柱が建っている。
鴻巣側の木戸のため、「北の木戸」 や 「上の木戸」 と呼ばれており、桶川宿はここで終わる。
この先の桶川市役所入口交差点の角に桶川宿の石柱が建っている

北本宿の碑 観音堂 多門寺 天神社
暫く街道を進んで本宿交差点に来ると、交差点を渡った左側角に北本宿の碑が建っている。
今日の北本のもととなる街並みがつくられたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まり。現在の本宿付近は、そのころ本鴻巣村と呼ばれていた。
本宿交差点から程なく左側に観音堂が建っている。
境内には、十三仏が並んでいる。十三仏は、十王をもとに日本で考えられた、冥界の審理に関わる13の仏 (正確には仏陀と菩薩) のことである。また十三回の追善供養 (初七日~三十三回忌) をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられる。

観音堂から程なく右手に多聞寺がある。
多門寺の開山は、万治4年(1661年)で、真言宗智山派の寺院である。
境内には、十三仏が安置されており、推定樹齢200年のムクロジの木は県指定天然記念物である。
多聞寺に隣接して横には 「天圀蔵五柱稲荷大神」 の幟が林立した 「天神社」 がある。
菅原道真を祀った神社である。

浅間神社 旅籠風の居酒屋 浅間神社 金剛院
北本駅を過ぎると左側にこんもりと茂った林があり、中には浅間神社がある。
境内手前には、ご神体が猿の庚申塔が建っている。
この先、北本氏東間歩道橋の下の空き地に小さな石祠の稲荷神社があり、たくさんの狐が安置されている。
深井二丁目交差点の角に鴻巣宿加宿上谷
新田碑が建っている。
裏には人形町と彫られている。人形町に入ると雛人形のお店が軒を連ねている。
広田屋ひな人形の看板を左にみて少し進み、右手の細い路地を入って行くと左手に浅間神社がある。祠は一段高い所に祀られている。近くには八幡神社もある 浅間神社の裏には金剛院が建っている。
金剛院は、真言宗智山派の寺院で高立山と号し、僧亮恵 (文明3年1471年寂) が開山したと伝えられている。
山門をくぐると正面に本堂、左手に不動堂が建っている。

太刀屋 ひなの里 こうのす宿の碑 勝願寺
街道に戻ると左側にひな人形の広田屋があり、その向かい側に節句人形の太刀屋がある。
太刀屋は、は天保5年(1834)の創業である。
太刀屋から程なく左側に鴻巣市産業観光館 「ひなの里」 がある。
ひなの里には、ひな人形や赤物など鴻巣の歴史を今に伝える展示品や、明治期建造の蔵と、季節ごと色とりどりの花が楽しめる中庭がある。
本町(南)交差点の三谷釣漁具店の向かい側に鴻巣宿の碑が建っている。
側面には、是よりこうのす宿と刻まれている。この先、歩道の街灯には 「鴻巣宿」 の小旗が下がっている。
鴻巣宿に入って武蔵野銀行鴻巣支店の向かい側の路地を入って行くと勝願寺の山門が見える。
勝願寺は、天正年間(1573~92)の頃、清厳上人によって中興された。
境内には、真田小松姫、真田信重、仙石久秀などの墓がある。また、徳川家康の庇護を受けていたため、軒丸瓦や仁王門には三つ葉葵がある。また墓地の天明7年(1787)に建立された芭蕉句碑があり、「けふばかり人も年よれ初時雨」 と刻まれている。

鴻巣本陣跡 清水坂 道標 法要寺
本町交差点から200mほどの街道左側に鴻巣本陣跡の碑が建っている。
歩道上にあり、建物などは残っていない。
和食・うなぎ柳屋の向かい側の空き地の奥に小さな鳥居と祠がある。脇には表面が削れた石塔が立っている。 鴻巣駅入口交差点に最近できた道標が建っている。
道標には、熊谷宿まで四里六町(十六・四粁)桶川宿まで一里三十町(七・二粁)と刻まれている。
蕨中央図書館入口交差点の一本手前の路地を右に入ると法要寺の山門が見える。
法要寺は長禄元年(1457)の開基で、北本市にある深井寿命院の末寺。寺号を慈雲山医王院法要寺という。寺紋は、加賀百万石 前田家の家紋と同じ 「梅に鉢」 である。
境内には、文化財指定されている庚申塔がある。宿の江戸側の入口にあたるところに木戸をかたどったモニュメントが建っている。

問屋場跡 鴻神社 池元院 分岐道標
鴻神社の手前左側に土蔵のある建物がある。
この辺に問屋場があった。
問屋場は宿場でもっとも重要な施設で、大きく2つの仕事があった。一つは人馬の継立業務で、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際 に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶというもので、もう一つが幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務で、継飛脚という。
鴻神社交差点の手前右手に鴻神社がある。
明治6年に鴻巣宿の雷電社・熊野社・氷川社を合祀して鴻三社、その後明治35年から40年にかけて日枝神社、東照宮、大花稲荷社、八幡神社を合祀して鴻神社となった。
古代に武蔵野の国を統治する機関があったといわれ、国府の洲(中心)が 「こうのす」 となり、 「こうのとり伝説」 から鴻巣の字をあてるようになったと言われている。境内には、樹齢500年以上のイチョウがある。
街道分岐の加美交差点の手前右側に妙見山池元院がある。
境内には蘭渓堂碑(らんけいどうひ)がある。
蘭渓堂如水、本名は北岡仙左衛門俊之と言い、文政13年(1830)には15歳にして読み書きの道場を開いたという。
明治14年8月門弟たちによって筆塚が建立され、郷土の子弟教育に生涯を捧げた如水翁の功績を称えて、この碑が建てられた。院前に南無阿弥陀仏碑が建っている。
加美交差点の左側に道標が建っている。
道標には、「熊谷宿へ三里三十二町(約十五粁)
京三条大橋へ百二十三里六町(約四百八十四粁) 」 と刻まれている。

白山神社 永林寺 光徳寺 箕田観音堂
分岐から200mほど先にひときわ高い木が立っているところに白山神社がある。
境内には、地蔵尊、石塔、石祠などが並んで安置されている。
宮前原自治会集会所の角に永林寺の看板が立っている。
永林寺は、曹洞宗の寺院で宮前山と号し、鴻巣市箕田にある宝持寺の僧惠庵(寛永11年1634年寂)が開山となり創建したと伝えられている。
永林寺から程なく左側に聖山光徳寺入口の看板が立っている。
光徳寺は、真言宗豊山派の寺院で聖山不動院と号し、高野僧の源楽(天長2年825年寂)が開基となり創建したと伝えられる古刹である。江戸時代には寺領5石の御朱印状を拝領している。入口脇には、再建の碑が建っている。
光徳寺から程なく右側に蓑田観音堂がある。
最近までは、大きなイチョウの木が数本あったというが、すべての木は途中から切られて丸坊主になっている。参道には、庚申塔などの石像群が安置されている。
ここの観音様は、源頼光四天王の一人で鬼退治で知られた渡辺綱の守り本尊と伝えられている。ここ箕田(みた)の地は、嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地である。

龍昌寺 宝持寺 氷川八幡神社 満願寺
宮前交差点を越えて鴻巣市立箕田小学校の向かい側に龍昌寺がある。
龍昌寺は、真言宗豊山派の寺院で自在山龍珠院と号し、江戸時代までは箕田龍珠院と通称していた。光範僧都が永長2年(1097)に開山したと伝えられ、古くより近郷における新義真言宗の中心的な寺院として栄え、天正19年(1591)には満願寺と共に寺領5石の御朱印状を拝領、末寺三十六ヶ寺を擁していたという。境内には、十三仏などたくさんの石仏がある。
龍昌寺の近くに宝持寺がある。
宝持寺は、曹洞宗の寺院で曹傳山美源院と号し、創建年代は不詳だが渡辺綱が祖父(箕田源氏の祖源仕)父(源宛)の菩提を弔う為に創建したと伝えられている。
慶安年間(1648-1651)には江戸幕府より寺領5石の御朱印状を拝領した。
境内には、鐘楼、供養塔が建っている。
氷川八幡神社は、宝持寺に隣接している。
この八幡神社は、明治6年、箕田郷27ヶ村の鎮守として崇敬されていた現在地の八幡社に、宇龍泉寺にあった八幡社を合祀した神社である。
箕田の地は嵯峨源氏の流れをくむ箕田源氏発祥の地であり、境内には、箕田源氏の由来を記した箕田碑がある。
荒川に流れ込む武蔵水路の手前に満願寺が建っている。
満願寺の創建年代は不詳だが、清和源氏の初代源経基が創建したとも源頼義が奥州征伐の際に創建したとも、源頼義の家臣若林某が住んでいた地ともいい、鎌倉時代以前からの言い伝えが残る古刹である。往古は供僧も多く、多くの僧坊・末寺を擁した大寺であったといい、天正19年(1591)には、龍昌寺と共に寺領5石の御朱印状を拝領している。

箕田追分地蔵堂 道標 前砂の一里塚跡 道標
武蔵水路を中宿橋で渡って進むと分岐があり、左が中山道で右は日光へ向かう道である。
この分岐の左側に箕田追分地蔵堂があり、脇には庚申塔が立っている。
分岐の中央には、中山道の石柱があり、「彩の国さいたま平成の道標」 と刻まれている。
脇には中山道文間延絵図や蓑田源氏ゆかりの地の解説がある。
分岐から暫く進むと右手に高崎線が見えて来て、左側に介護老人保健施設秋桜があり、そのT字路に道標が建っている。
正面には、「江戸より十五里余 前砂村」 と刻まれ、側面には、「池田英泉の鴻巣・吹上富士はこのあたりで描かれた」 と刻まれている。
道標から程なく左側に一里塚跡がある。
江戸日本橋から14里目の一里塚で、標柱が残るのみである。
説明板があり消えかけてよく読めないが、吹上町指定文化財となっている。
前砂交差点の手前に石柱の道標が建っている。
正面には 「中山道こうのすふきあげ」 と赤字で刻まれ、右側面には 「二里二十二町(約十粁) 京三条大橋へ百二十一里三十二町(約四百七十九粁)、左側面には 「桶川宿へ三里十四町(約十三粁) 江戸日本橋へ十三里二十八町(約五十四粁)」 と刻まれている。

妙徳地蔵尊 勝龍寺 道標 東曜寺
鴻巣市立吹上中学校の手前で高崎線の踏切を渡り、直ぐ左の道を入って行くと古時計工房シルバーで分岐になる。
この分岐に妙徳地蔵尊が建っている。眼病にご利益があると記されている。
妙徳地蔵尊から200mほど先の柏屋不動産の向かいに細い道があるので、入って行くと突当りに勝龍寺がある。勝龍寺は、浄土宗の寺院で、吹上山寶光院と号する。江戸時代の初期に徳川幕府は、優秀な僧侶を育成するために、関東十八檀林という十八の学問所(現在の国立大学のようなもの)を定めた。その十八檀林の中でも上席であった、勝願寺住職/円誉上人不残和尚が引退し、隠居する際に家康公に建立してもらったのが勝龍寺である。 吹上本町交差点の左角に道標が建っている。中山道は、ここを左に曲がって行く。
正面には 「間の宿吹上」、側面は赤字で 「中山道」、裏側には「鴻巣宿から熊谷宿までは四里六町余(約十六粁)と長かったため立場ができ、「間の宿」 として賑わいました。八王子千人同心街道と交わる名所です。」 と刻まれている。
道標を左折して直ぐ右側に背の高い生垣の参道が続き、正面に東曜寺がある。
東曜寺は、真言宗豊山派の寺院で瑠璃光山寶壽院と号する。
境内には、祠に納まったいぼ地蔵と本堂手前に六地蔵がある。

吹上神社 道標 道標 物言い地蔵
東曜寺に隣接して吹上神社がある。
祭神は大山咋命、倉稲魂命、大物主命、菅原道真で、前身は近江国大津の日枝大社(山王社)を奉奏する日枝社である。
宝暦六年七月火災により焼失し、その後再建されたが年月は不詳である。
明治四十年、稲荷社、八坂社、氷川社、琴平社、天神社の五社を合祀し、現在の名前になった。 
吹上神社から程なく吹上本町郵便局の先で高崎線を渡る歩道橋があるが、その脇に道標がある。
道標には、正面に赤字で 「中山道間の宿」、側面に 「彩の国さいたま平成の道標」 と刻まれている。
鴻巣市消防団第15分団の建物の角に道標が立っている。
道標の奥には榎戸堰公園があり、旅人のためのトイレが設置されている。
道標には、正面に 「中山道榎戸村」、側面に 「熊谷宿まで二里(約七・九粁) 鴻巣宿まで二里十五町(約九・六粁)」 と刻まれている。裏面には、旧榎戸村は中山道に面した小村だが、江戸以来、榎戸堰があり、風光明媚なところとしてて知られたなどと刻まれている。
荒川の土手の手前に祠があり、中に地蔵尊が安置されている。
鳥取藩士の平井権八が同僚を殺害し江戸に逃れたが、途中金に困り、久下の長土手で絹商人を殺害し大金を奪った。その現場で事の一部始終を見ていたかのように佇む地蔵尊に権八が 「今の事は他言してくれるな」 と言ったところ、石造りの地蔵が 「吾れは言はぬが 汝言うな」 と言い返したという伝説がある。

荒川土手 決壊の跡
物言い地蔵から荒川土手に上がると一面に菜の花が咲いてる。 昭和22年のカスリーン台風による洪水のため熊谷市久下地先のこの地点で濁流が堤防を越え決壊した流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、折しも利根川の決壊した濁流と合流し、はるか東京まで達し尊い多くの人命を奪うとともに付近一帯に甚大な被害を与えた。
本日はここで終了し、最寄りの行田駅から帰ることとした。

平成26年4月17日(木)☀  行田~岡部   23.4㎞
前回に続き、天気が良くて終日安定しているとの予報だったので、早朝に自宅を出て7時21分に行田駅に着き、駅前で食料を買い込んで続きを再開することとした。今回は荒川の土手がスタートになる。

荒川土手 修堤記録の碑 久下神社 権八地蔵
何処までもまっすぐな土手が続いている。
河川敷には、畑の中に屋敷森が残っているところもある。また土手にはカルタ札が立っていて読んでみると面白い。
荒川土手を下りて下の道を行くと修堤を記憶した輪型の碑が建っている。
これより中山道は旧久下村に入る。
旧久下村に入って直ぐ右側の熊谷消防団久下分団の前に久下神社がある。
鎌倉時代、久下直光が地内に2つの三島神社を創建し、大正二年にその三島神社と村内(当時は熊谷市でなく久下村)14社を合祀し、久下神社に名を改め大正三年に現社地に移転したという。
境内には、合祀碑などの石碑が建っている。
県道257号線の橋脚を抜けて直進すると、荒川土手の突当り手前に権八地蔵の祠がある。
吹上にあった 「物言い地蔵」 といわれは同じである。
どちらが本物か不明であるが、こちらは脇に地蔵尊や石塔がたくさんあり、本物らしい。

久下の渡し碑 みかりや跡 東竹院 一六橋
土手を迂回して行くと、上がったところに久下の渡し・冠水橋跡の碑が建っている。
ここには荒川の渡しがあり、後に冠水橋を設置したところである。
土手を下ると 「みかりや跡」 がある。
中山道を往来する旅人相手の茶店で、「しがらきごぼうに久下ゆべし(柚餅子)」 の言葉がある通り名物だったとのこと。
忍藩の殿様が鷹狩に来ると、ここで休んだところから御狩屋(みかりや)と呼ばれたという。
みかりや跡から程なく左側に東竹院がある。
東竹院は、曹洞宗の寺院で梅籠山久松寺と号し、建久二年(1191)久下直光の開基である。
本堂の屋根瓦には久下家の家紋一の字の一番文字があしらわれている。
境内には、六地蔵、安政5年の庚申塔、馬頭観音、石仏が祀られている。
東竹院を過ぎると小さな熊久橋があり、小川が流れている。
清らかな流れで熊谷市にしか生息が確認されていない天然記念物の 「ムサシトミヨ」 が棲息している。
看板には、ムサシトミヨの生息に必要なため、水草や藻は取り過ぎないようにと書かれている。

一里塚跡 高城神社 熊野神社 札の辻跡
曙万平町自治会館のところに小さな公園があり、その一角に石碑が建ち、祠がある。
ここが八丁の一里塚跡で、江戸日本橋より数えて十六里目である。
石碑は、遷宮記念碑と皇太子御降誕伊勢参宮記念碑である。
秩父鉄道と高崎線の線路を越えて国道17号線に合流する。ここから熊谷宿である。
熊谷市役所入口交差点を過ぎると右側に高城神社がある。
高城神社は、「熊谷総鎮守」 になる神社である。天正十八年(1580年)に豊臣秀吉が忍城を攻めた際に、高城神社も焼失したが、江戸時代に入り、忍城主の阿部豊後守忠秋が社殿を再興した。
高城神社三の鳥居左側に三社並んでいる。
その中の熊野神社は永治年間、猛熊に住民が悩まされ熊谷次郎直実の父直貞が退治し、熊野権現堂を建てたと伝えている。
明治維新後に熊野神社に改称、明治四十年に高城神社境内に遷座。

北越銀行の先の市営駐車場入口交差点の左側に札の辻跡がある。
札の辻は、高札の設置場所で、高札場とも言われた。高札は、掟・条目・禁令などを板に書いた掲示板で、一般大衆に法令を徹底させるため、市場・要路など人目を引く所に掲示された。熊谷宿の高札場は、今の大露路と中山道の交差する付近と推定される。

本陣跡 星渓園 熊谷寺 新島の一里塚
埼玉信用金庫の向かい側のバス停の横に本陣跡がある。
熊谷宿の本陣は竹井家が務めたが、明治の火災と、昭和の戦災のため灰燼に帰したが、嘉永2年(1849)一条忠良の娘寿明姫宿泊の折、道中奉行に差し出した本陣絵図の控えが竹井家に残っており、その絵図によって内部の模様が細々とわかる。
現在は碑が建つのみである。
本石二丁目交差点を左折したところに星溪園がある。
星渓園は回遊式庭園で、熊谷の発展に数々の偉業を成した竹井澹如翁によって慶応年間から明治初年にかけてつくられた。
明治17年8月、昭憲皇太后がお立ち寄りになり、大正10年には秩父宮殿下がご宿泊になった等、由緒有る場所である
国道17号線を挟んで星渓園とほぼ反対側にあるのが、熊谷寺である。
熊谷寺は、浄土宗の寺院で山号は蓮生山(れんせいざん)といい、板東一の剛の者と称された熊谷次郎直実公が出家され、法力房蓮生法師となり、有縁無縁のすべての衆生と共に蓮のうてなに生まれんと願い、ひたすら念仏を称え続けた草庵が始まりという。
暫く国道17号線を進み、石原北交差点の先のY字路で左に入るのが旧道である。
旧道に入って間もなく右側に新島の一里塚跡がある。植木の一里塚とも云われ、樹齢300年の欅の大木がある。 また、向かい側には 「摩多利神改修の碑」 の石碑もある。

忍領石標 新照寺 玉井堰 観音堂
一里塚から50mほど先の変則十字路の左側に忍領石標がある。
徳川御三家に次ぐ親藩であった忍藩が安永9年(1780)に16ヶ所に建てた藩境の1本で、明治以降、長らく行方不明だったが 昭和14年(1939)に発見され、この地に再建されたものと云われている。
石標には 「従是南忍領」 と刻まれている。
忍領石標の先左側に新照寺がある。
山門前には南無阿弥陀仏碑や地蔵尊などの石塔がある。
新照寺から300mほど進むと、道はY字路になるので右に進む。
玉井堰幹線用水路(柿沼堀)を跨ぐことになる。
国道17号線を横切って旧道を進むと玉井の集落に入る。暫く進むと右側に観音堂がある。
あらゆる苦しみから救い出してくれる観世音菩薩(観音様)を安置しており、傍らには地蔵祠がある。
入り口街道沿いには庚申塔や正徳三年(1713)の青面金剛像等の石塔がある。

明治天皇御小休所跡 庚申塔 熊野神社 木曽御嶽信仰の行者旧跡
㈱ベルク玉井を右に見て、先の十字路の左側に明治天皇御小休所跡がある。
ここは籠原立場で、志がらき茶屋本陣跡である。
明治天皇御小休所跡から1㎞ほど行った千村接骨院の向かいの民家の脇に庚申塔が2基建っている。正面は、かなり傷んでいて文字の判読が難しい。
東方町二丁目交差点を越えて、幡羅郵便局の斜め向かいに石の鳥居があり、300mほどの参道の先に熊野神社がある。
長い参道の参道の両側には奉納された39基の石灯籠が続き、境内には、樹齢350年のご神木の大欅がそびえている。
熊野神社の参道口から400mほど先、左側の根岸石材店の手前に木曽御岳信仰の行者旧跡がある。
境内には、祠が二つあり、それぞれ普寛行者、一心行者が祀られている。
覚明行者は御嶽山の黒沢口登山道を、普寛行者は王滝口登山道を開いた、木曽にとって大恩ある行者である。
一心行者は普寛行者の最後の弟子で、本明院2代目をつがれた。

愛宕神社 見返りの松 東口常夜燈 大谷邸
深谷市立幡羅中学校手前、右側に愛宕神社がある。
愛宕神社は、楡山神社の摂社であり、同一の氏子によって護持されており、江戸時代までは八町八反の広大な社叢をもち、火防などの信仰がある。
旧道は、国道17号線を横切って深谷宿へ入って行く。
交叉する原郷交差点に見返りの松があり、石碑が建っている。
深谷宿に泊まった旅人が江戸に向かう時、一夜の契りをかわした女との別れを惜しんだといわれている。現在の松は、二代目で先代は樹齢300年以上と言われている。
原郷交差点を過ぎて、旧道を100mほど進むと右側に常夜燈が建っている。
市指定文化財の旧深谷宿常夜燈は、中山道の中でも最大規模の宿場であり熊谷宿と本庄宿の間に位置する深谷宿の西と東の入口に旅人のための目印として造られた。この常夜燈を建てたのは、江戸時代中頃から盛んになった富士構の人たちで、この構の印である(三)が燈身に透かし彫りになっている。
常夜燈から程なく右側に赤レンガの塀に囲まれた敷地の中に、白壁の土塀と門の奥に洋館が建っている。
主屋、洋館、本蔵、松庭湯、祠、中門及び塀、裏門及び塀、欅空庵、米蔵の9件が登録有形文化財に指定されている。 昭和恐慌の時、時の深谷町長故大谷藤豊氏がお助け普請で建てた木像2階建て洋館付き和洋折衷住宅。ステンドグラスなど大谷邸には精巧優美な細工が数多く見られる。

行人橋 造り酒屋「七ツ桜」 滝澤酒造 西口常夜燈
大谷亭の直ぐ先に唐沢川に架かる橋がある。昔、この橋の近くにいた行人という僧が、唐沢川の洪水でたびたび橋が流されるのを嘆き、もらい集めた浄財で橋を架け、以来、この橋は「行人橋」 と呼ばれるようになったという。
橋のたもとに行人橋碑(明治31年建立)があり、名前の由来が刻まれているが判読できない。木橋が多かった時代に主要街道の橋梁として石橋で造ったそうである。
行人橋を渡って暫く進むと深谷交差点の先右手に江戸時代からの造り酒屋 「七ツ桜」 の看板の旧田中藤左衛門商店がある。
この蔵元は近江商人で、享保元年(1716)屋号を十一屋として創業したが、平成16年に廃業した。
深谷町から田所町に入ると文久三年(1863)創業の滝澤酒造が左手にある。
こちらの主銘柄は菊泉(きくいずみ)という日本酒で、菊のように香り高く、泉のように清らかな酒という意味を込めてこの名前がついているそうである。
軒下には杉玉(酒林)が下がっている。
滝澤酒造の直ぐ先に西口の常夜燈が右手に建っている。
この常夜燈は、 天保11年(1840)の建立である。常夜燈には、天下泰平、国土安民、五穀成就と刻まれている。
この常夜燈を建てたのは、江戸時代中頃から盛んになった富士構の人たちで、この構の印である(三)が燈身に透かし彫りになっている。

呑龍院 天手長男神社 清心寺 萱場稲荷神社
西口常夜燈の前には呑龍院があり、呑龍上人の木像が安置されている。
境内には、真っ赤に塗られた鐘楼と祠が2つ建っており、一つには南無阿弥陀仏の石柱、もう一つには4体の子育て地蔵尊が安置されている。
呑龍院の先には、長崎県壱岐市郷ノ浦町に鎮座する壱岐国一の宮から勧請した天手長男神社(あめのてながおじんじゃ)がある。
天手長男命は本庄、岡部、深谷に多く祀られた渡来神である。
旧道の左側で高崎線を越えたところに清心寺が建っている。
清心寺は、浄土宗の寺院で山号は石流山八幡院という。
平清盛の義理の弟であり、智勇に優れた平忠度の菩提を弔うため平忠度を源平一の谷の戦いで討ち取った岡部六弥太忠澄によって建立された五輪塔がある。鐘楼の前には、平忠度ゆかりの 「忠度桜」 が美しい花を咲かせている。
国道17号線に突き当たる直前右側に石鳥居の萱場稲荷神社がある。
境内には、水天宮碑、水神宮碑がある。

瀧宮神社 正明寺 源勝院 岡部神社
旧道と国道17号線の交差する宿根交差点の先に瀧宮神社がある。
関東管領上杉憲房の重臣岡谷加賀守香丹が明応5年(1496)6月の大干ばつの時、貯水池を掘ったところ、この地にまさに滝のごとく水が湧き出てきたので、歓喜した領民は、社殿を建て瀧宮神社と奉称して祀ったという。
境内には、天手長男神社、三峰神社、富士浅間神社、そして社名ゆかりの池がある。
国道17号線の岡部(南)交差点の右側に曹洞宗の寺院の正明寺がある。70~80mの参道入口には、二十二夜塔と崩れた石柱があり、寺の入り口には地蔵菩薩が並んでいる。 街道を進んで岡部(北)交差点の手前右側に源勝院がある。
曹洞宗の寺院の源勝院は、岡部の地を領地とした安部家の菩提寺として作られた寺で、境内墓地の一角に二代 信盛から十三代 信寶(のぶたか)までの十二基の屋根付位牌形の墓碑が東向きに南から北へ世代順に並んでいる。
源勝院に隣接して岡部神社がある。
昔は聖天宮と称され、本殿には歓喜天の本像が安置されている。明治12年(1989)岡部神社と改称し現在に至っている。
岡部六弥太忠澄の祈願所とも言われ、寿永年間忠澄は一の谷の戦功を感謝し記念に杉を植栽したと伝えられている。
境内には、二十二夜塔、庚申塔などの石柱が並んでいる。

観音寺 普済寺 耕地整理記念碑 島護産泰神社
岡部神社の隣に観音堂がある。
源勝院の末寺で、天保2年(1645)源勝院四世和尚の隠居寺として、領主 安部家の子孫代々の長久を願い創建された。
文政10年(1827)火災のため本堂は焼失した。
普済寺交差点右側に普済寺がある。
普済寺は、曹洞宗の寺院で、建久2年(1191)岡部六弥太忠澄が創建したと言われている。
本尊は十一面観音と一百体観音で、開祖した六弥太は建久8年(1197)に没し、六弥太の法名から寺号が付けられた。参道入口には、馬頭観音の石碑、二十二夜塔が、山門手前には地蔵尊、観音像、石塔がある
国道17号線の分岐を右に入って旧道を進むと右手に大きな石碑が建っている。
耕地整理記念碑である。
分岐の右手には、屋敷森が見られる。
創立年代は明らかではないが、旧榛沢郡内の開拓が、当社の加護により進められた為、郡内の格村の信仰が厚くなり、総鎮守といわれるようになったと伝えられている。
この為に当社の再建及び修築等は、郡内格村からの寄付によりなされた。祭神は瓊々杵尊・木之花咲夜姫命という。社殿の左側には二十二夜塔、青面金剛、庚申塔等の石碑が並び、社殿の右側には稲荷社、社日、弁財天がそれぞれ鎮座している。


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