正保2年(1645)の 「本庄町外石高等領地図」(中原家蔵) に 「滝瀬村ノ内堀田」 と見え、更に 「武蔵誌」 には、堀田は 「中山道筋滝瀬ノ新田別村二アラス」 とあり、古くは滝瀬村に属していたことがわかる。堀田は、前堀田と北堀田の二つの地区に分かれ、いずれも鎮守として諏訪神社を祀っている。
 当社は前堀田の方の諏訪神社で、神社を中心として西方の地域の小名を上諏訪(通称は上)、東方の地域の小名を下諏訪(通称は下)と呼んでいる。
 社蔵の明治初年の 「明細帳」 によれば、往古甲斐の国逸見儀左衛門は信濃国の諏訪大社を深く崇敬していた。永禄10年(1567)の頃にこの逸見家が没落した際、その一族が武蔵国に来て、堀田の字下諏訪の地に土着し、同地に諏訪大社の分霊を勧請して一族の祈願所とした。以来武門の崇敬を集めたが、永い歳月を経て衰微してしまった。そこで寛延2年(1749)に前堀田の氏神として再興し、遷座祭を執行した。この時、逸見郷右衛門・粂原友之丞・荻野万兵衛・内田清兵衛・田沼四郎衛らが世話に当たったという。
 明治初年の社格制定に際しては、古くから滝瀬村の鎮守であった滝瀬社(旧聖天社)が村社となり、当社は無格社とされた。明治27年には、幣殿増築並びに本殿修繕を行った。

文化2年(1805)の廿三夜塔

諏訪神社由緒

諏訪神社拝殿