当社は、建久年間(1195)に児玉党の一族・牧西四郎広末が武運長久の守護神・相州鎌倉の鶴岡八幡宮を奉遷して当所に祭ったものである。
 越えて文明3年(1471)五十子合戦のとき兵火にかかって焼失。その後は廃社になっていたが、慶長17年(1612)頃信州佐久郡依田荘の住人・依田五郎左衛門が当地に来て在住したが、八幡大神社を再興ふかく信仰した。依田氏は後に姓を宮崎と改め、当社の神主として代々奉仕した。徳川時代には領主より神田5畝25歩の寄進があった。明治41年本県より神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)の指定があった。
 なお、当社奉納の宮崎組神楽は、市の指定文化財になっている。
 この神楽は、天照大神の岩屋のかくれ神話が、その起こりとされており、神を喜ばせる舞楽として各地にそれぞれのいわれをもって伝えられてきた。金鑚神楽・宮崎組の起こりについてはまだ明らかでないが、使われている面は江戸時代正徳年間(1711-15)以前の作であり、この地の神楽が古くから行われてきたことを物語っている。宮崎組は変わり面などの珍しい舞い方も伝えられ、また遠くは信州上諏訪など各地に出かけて神楽を奉納してきた。なお座(出し物)はいま25座伝えられている。
 (埼玉県本庄市)

八幡大神社由緒

舞殿と常夜燈

八幡大神社の扁額が掛かる屋根付鳥居

拝殿

石碑祠 (正面は全て形が異なる)

石祠の前に布袋様、だるま、狐、大黒様が置かれている

御嶽山大神、三笠山大神などの石碑