中山道は、江戸と京都を結ぶ街道で江戸時代以降五街道の一つとして整備が進められました。
金窪村(現上里町大字金久保)は、江戸から23里余、文政期(1818)の家数は162軒、絵図では陽雲寺や八幡宮が見られます。
新町宿への直路ができるまでは、陽雲寺の東で北へ向きを変えて角渕(現群馬県玉村町)を経て倉賀野宿へ向かっていました。この道は、三国街道とか伊香保街道と呼ばれていました。新町宿が設けられたのは、中山道中最も遅い承応2年(1653)頃です。
勅使河原村(現上里町大字勅使河原)家数は280軒、絵図では武蔵国最後の一里塚が見えます。現在の街道は、ここで国道17号線と合流します。川のたもとには、一般の高札と川高札が並んでいた事がわかります。左奥には神流川畔に建てられていた見透燈籠が移築されている大光寺が見えます。
(上里町教育委員会)
庚申塔群
賀美公民館前の中山道説明板
殉国慰霊之碑