百庚申は、岡の坂下への降り口、旧中山道に沿う坂道に建てられている。
 百庚申が建立されたのは幕末、万延元年(1860)の庚申の年で、岡の有志13人により計画され、翌年の万延2年にかけて完成をみた。
 このことは、庚申塔群の中に大形の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれている文字により窺い知ることができる。これによれば、百庚申造立の中心人物は、「田島新兵衛、田島喜蔵、田島直右衛門、田島武左衛門、田島利三郎、坂爪治兵衛、小暮一右衛門、小暮半次郎、小林常七、小林□兵衛、柳田熊次郎、山口竹次郎、発起人中野屋宗助」 という人々であったことがわかる。
 もともと、この場所には、享保元年(1716)に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も建っていた。
 万延元年は、徳川幕府の大老井伊直弼が江戸城の桜田門外において水戸浪士達により、暗殺されるという大きな事件があったり、黒船来航により永い鎖国の夢を破られた日本の国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況にあって神仏に頼ろうという心理と、万延元年(庚申の年)が重なり百庚申が造立されたと言えよう。
 (埼玉県岡部町)

百庚申説明

百庚申の段上にある八坂神社

村社寅稲荷神社の社標

庚申塔群

庚申塔群