金久保神社は大永5年(1525)金窪城主斎藤盛光が鎌倉の鶴ケ岡八幡宮から城内に八幡宮を勧請したことに始まり、神流川合戦で金窪城の落城とともに焼失しました。
その後、元和年間(1615-24)に村民より中山道脇の現在の地に遷座したと伝えられています。
ここには、拝殿に狩野派の絵師、祥雲斎俊信によって描かれた天井絵があります。この天井絵は中央に雲龍図が描かれ、そのまわりに66枚の花鳥画が描かれています。中央の龍の絵に
「文久3年(1863)癸亥卯月吉日狩野探僕守邦門人祥雲斎俊信画」 とあります。
また、拝殿の外側の彫刻は、もともと東京の湯島天神に設置する予定だったものを譲り受けたもので、明治の中頃に造られました。
この神社には金久保神社獅子舞保存会があって、今でも秋の大祭には獅子舞が行われています。
(上里町教育委員会)
金久保神社由緒
拝殿から見た参道
旧拝殿の鬼瓦
金久保神社参道口
(八幡神社社標が建っている)
金久保神社石鳥居
金久保神社拝殿