参道際にある石の祠は、新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ金窪城に住した畑時能(はたときよし)の供養祠と伝えられているものである。時能は秩父郡長瀞町の出身で義貞戦死後も南朝方のために孤軍奮闘したが、暦応2年(1339)越前国で足利方に討たれた。
 従臣児玉五郎左衛門光信が時能の首級を携えて敵軍を脱出し、当地に持ち帰り供養したものという。後に光信も時能の墓側に葬られ二石祠が建立されて、両者の姓を取り 「畑児塚」 と呼ばれている。

 陽雲寺は曹洞宗の寺で、鎌倉時代初期の元久2年(1205)の創建と伝えられ、初め唄樹山満願寺と称したという。元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府打倒を祈願して不動堂を造立したことが寺伝にみられ、以来、「新田勝軍不動堂」 などと称され、室町時代には金窪城主斎藤氏の帰依が厚かった。天文9年(1540)斎藤定盛が諸堂を修復し、寺名を崇栄寺と改めたが、天正10年(1582)の神流川合戦の兵火で焼失した。
 天正19年、金窪の領主となった川窪信俊は養母である武田信玄夫人を伴って入封し、信玄夫人は当寺の境内に居住したが、元和4年(1618)に没した。信俊は、夫人の菩提を弔うため、その法号である陽雲院をとって寺号を崇栄山陽雲寺と改称した。元和5年には徳川幕府から御朱印5石が寄せられている。
 なお、境内には県指定文化財となっている元禄銘のある道鐘や、県指定旧跡となっている新田義貞の家臣であった畑時能(はたときよし)の供養塔などがある。
 (埼玉県上里町)

新田義貞の家臣畑時能の供養祠

陽雲寺由緒

畑時能供養祠説明

宝篋印塔

陽雲寺本堂

鞍馬太郎坊大権現碑

陽雲寺遠望

参道に安置された地蔵尊、二十三夜塔、馬頭観音

六地蔵尊