板碑は 「板仏」・「平仏」・「板石塔婆」 などと呼ばれ、追善供養などのために建てられた、板状の石材を使用した卒塔婆の一種である。中世の関東地方において多く作られた。形状は、上部を三角形にして、その下に二条の線が切り込まれ、梵字や仏像などが刻まれる。
 安楽寺にある2基の板碑は、将棋の駒型をしていて通常の板碑よりも厚みがあり、石材は牛伏砂岩(天引石)が使われている。板碑は緑泥片岩で作られることが多く、牛伏砂岩が使用されている例は少ない。梵字で刻まれているのは阿弥陀三尊である。
 この板碑は、風化により年号が判別できなくなっているが、形態などから鎌倉時代末から南北朝時代前半の造立と推定されている。
 (高崎市教育委員会)

 当お堂は、当山第48世亮田上人(明治15年5月5日没)住職在任中、吾妻郡沢渡温泉在、浄土宗宗本寺第19世哲誉上人と国定忠治一家代貸空っ風(小山)の長四郎とが奇遇し、哲誉上人から長四郎が 「幻の火伏の名号」 の巻物一巻を授与されたところである。
 小山正春著(上毛新聞社刊)
 「幻の火伏の名号」 より
 巌堂山七仏薬師如来
 第51世亮仁敬白

文久3年(1863)の馬頭観音

安永4年(1775)の庚申供養塔

安楽寺本堂

 安楽寺古墳は7世紀末頃に築造されたと推定され、径20m、高さ4mの規模を有する円墳である。
 主体部は横口式石郭と呼ばれる形式で、羨道の奥に石棺が取り付いたような構造をしている。
 石室内部の壁面には、鎌倉時代の製作と推定される仏像が奥壁に3体、左右の壁に2体ずつの計7体彫られている。この仏像は、七仏薬師と呼ばれ安楽寺の本尊となっており、通常は秘仏とされているが、12年に一度巳年に開帳している。
 (高崎市教育委員会)

異形板碑2基

安楽寺古墳

異形板碑

勝軍地蔵尊(身に甲冑を付けた地蔵尊)

二十二夜堂(観音堂)