万日堂に安置されている本尊仏をみかえり阿弥陀という。この万日堂は国道18号(旧中山道)沿い南側にあったのを、昭和56年道路拡幅のために北側のここに移した。
昔、永観律師が不断念仏を思い立ち、本尊をめぐって行道念仏中つい眠くなって立ち止まっていたところ、本尊が 「永観遅いぞ」 と、後ろを振り向いて声をかけられたという。
みかえり阿弥陀尊は、その故事によってつくられた。京都禅林寺にあるものは国の重要文化財になっている。ここのはそれらより時代は下るが、それでも室町時代と推定される。関東では唯一のみかえり阿弥陀であろう。
この像を明治時代盗み出して売り払おうとした男があったが、君が代橋を渡る途中急死してしまい、仏像は事なきを得た。
大正時代もう一度盗まれたが、この男も君が代橋上で大雷雨に遭い、男は感電死したが、仏像は無事だったという。
鳥酔句碑
おもしろひ ゆめみる かほや 涅槃像
鳥酔白井信興(1701-69)は、江戸時代の俳人、上総(千葉県)の田舎で旗本知行所の郷代官をしていたが、家督を弟に譲り江戸に出て俳壇一方の雄となった。その影響は上総、上野に特に著しく、明和6年4月4日、江戸に没するや、数名の高弟、その遺志を分け合い、一は子持山下の双林寺門前に
「鳥酔翁家」 を作り、一は下豊岡万日堂に涅槃句碑を建てた。
前者は昭和24年県指定史跡となった。鳥酔は沼田、白井、高崎等には、しばしば滞留し、羽鳥麦舟・一紅夫妻、平花庵らが指導を受けた。句碑は雨什らの四奔庵連が鳥酔の七回忌に修法建立したものである。
顔は左横向き、やや下方を見ている。このため寝釈迦(涅槃像)ではないかという説もあり、江戸時代のある時期には、涅槃像として信仰されていたようである。
みかえりの阿弥陀は、日本全国でも分かっているのは5体に過ぎず、今まで関東では全く見られず、なぜ万日堂に伝来するのか興味深いものがある。
傍らの句碑の句も本尊を涅槃像と思ったものであろう。
像高83㎝、肩幅21㎝、足部幅17㎝、寄木桧作り、両手欠落、室町時代末期と推定
(高崎市教育委員会)
みかえり阿弥陀像説明
阿弥陀伝説
青銅製燈籠
貞享元年(1684)の観音像、南無阿弥陀仏碑
鳥酔句碑
六地蔵尊
おもしろひ ゆめみるかほや 涅槃像