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東海道   (本宿~宇頭)


平成29年6月3日(水)    ☀|☁    本宿~宇頭  18.0㎞
前回3月に歩いて以来の東海道であり、本日から3日間ほどは梅雨に入る前の晴れ間が続く予報である。本宿からは、ほぼ名鉄名古屋本線に近い所を通り、藤川宿、岡崎宿を過ぎて、東海道一の長橋であった矢作橋を渡った先の宇頭辺りまでの予定である。

宇津野氏邸跡 名残松 東海道道標 旧道口
前回の続きは、揚珠院の先の長屋門が目立つ宇津野氏邸跡からである。
本宿村医家宇都野氏は、古部村(現岡崎市古部町)の出と言われ、宝暦年間(1751-63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に医学を学んだ蘭方医として知られている。安政年間、当時としては画期的な植疱瘡(種痘)を施している。
宇津野氏邸跡の先に僅かではあるが、名残松の並木が続いている。 松並木の先で国道1号線に合流する右手に東海道道標がある。
道標には、「右東海道 左国道一号」 と刻まれており、傍らには常夜燈と本宿村の歴史解説板が建っている。
東海道道標のところで国道1号線に合流し、名鉄名古屋本線を右に見て進むと、程なく歩道から右に入る旧道がある。

天神社 浄信寺 愛宕神社 興円寺
旧道に入って間もなく、左手の国道1号線の山中小学校東交差点の角地にある高台に天神社がある。
天神社の創建年代等は不詳であるが、高台の頂上には小さな社殿と菅公弌千年祭碑などがある。
街道に戻って間もなく、右手の名電山中駅の踏切を渡ったところに浄土宗西山深草派の観照山浄信寺がある。
浄信寺の創建年代等は不詳であるが、境内には三河西国三十三観音菩薩が並んでいる。
街道に戻ると右手の名鉄名古屋本線の上に架かる跨線橋の奥に愛宕社がある。
愛宕社の創建年代等は不詳であるが、拝殿左手に秋葉神社があり、拝殿右手から山道を上って行くと標高152mの山頂に愛宕社奥宮がある。
愛宕神社鳥居前から左の山道を回り込むと山裾に曹洞宗の大雄山興円寺がある。
興円寺の創建年代等は不詳であるが、墓地入口に三体の地蔵菩薩が安置され、傍らに三面六臂の馬頭観音などの石造物が建っている。

順念寺 冠木門 永證寺寺標 舞木橋
街道に戻って進むと、左手に国道1号線を潜る道があり、潜り抜けた右手に真宗大谷派の法隆山順念寺がある。
順念寺は、舞木町に入ってから見てきた寺社と同様、すっきりとした境内に本堂と鐘楼が建っている。
街道に戻って間もなく、左手に冠木門のモニュメントがあり、傍らに舞木町の由来・山中城址・山中八幡宮について、それぞれの解説板が建っている。 舞木橋の手前右手に永證寺寺標と新四国第三拾八番の標柱があり、ここを右に入って行くと浄土宗の専稱山永證寺がある。
小さなお寺で鐘楼などは無く、堂宇は民家といった感じである。
山綱川に架かるのが、舞木橋である。
山綱川は、山綱町の丘陵地を源流として北に向かって流れ、舞木町の順念寺近くで羽栗川と合流した後、国道1号線とほぼ平行に流れ、竜泉寺川と合流した後、その先で乙川に合流している。

名残松 御開運御見隠山碑 常夜燈 山中八幡宮
舞木橋を渡ると、その先に名残松が数本並んでいる。
名残松の下には、東海道道標が建っている。
名残松の先で国道1号線に合流する舞木町西交差点の左角に御開運御見隠山碑が建っている。
碑の裏面には、「大衛士 文政4(1821)辛巳年」 のほか多くの人名が刻まれている。
街道を外れて御開運御見隠山碑の脇から田圃の中の道を進むと、突当りに巨大な天保4年(1833)の常夜燈が建っている。 常夜燈を右折すると、正面の森の前に山中八幡宮の赤い鳥居が見える。
山中八幡宮は、此の地の山中光重という人物が、朱鳥14年(699)宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、社を建てたのが始まりといわれる。
境内には、「鳩ヶ窟」 と呼ばれる洞窟があり、永禄6年(1563)に起こった三河一向一揆の戦いで、徳川家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれる。鳥居奥の参道石段脇には、推定樹齢650年の巨大なクスノキが立っている。

北側参道口 旧道口 東棒鼻跡 市場改耕碑
国道1号線に戻らず、両部鳥居前から山裾の道を進んで行くと右手を走る国道1号線に合流する手前に北側の参道口がある。
ここには御開運御見隠山碑と山中八幡宮解説が建っている。
国道1号線に合流して程なく、市場町交差点の先で左に入る旧道口がある。 旧道に入って間もなく左手に東棒鼻跡がある。
ここは藤川宿の東口であり、歌川広重の東海道五拾三次之内藤川棒鼻の図には、毎年八月に朝廷へ馬を献上する幕府役人一行を村人が出迎えている様子が描かれている。
ここには東海道標柱、東棒鼻解説、藤川宿榜示杭などが建っている。
東棒鼻の先を進むと、突当りの左手に市場改耕碑が建っている。

秋葉山常燈 格子造りの屋並 津島神社参道口 津島神社
市場改耕碑のところから右折して、右から回り込んできた道に出ると、国道1号線の高架手前に寛政7年(1795)の常夜燈が建っている。
常夜燈の先からは、藤川宿の直線の道が延びている。
藤川宿に入ると往時を偲ぶ格子造りの町屋が何軒か残っている。
この家の前には解説があり、「加宿市場は、本来、伝馬荷役、助郷人の手配など参勤交代の補助役を主体とし、昔は倉町と呼ばれ、50年前には30本ほどの蔵が残っていた」 と記されている。
街道を進むと右手に津島神社社標と常夜燈が建つ津島神社の参道口がある。
参道を入って行くと名鉄名古屋本線で分断され、線路の先に鳥居があり、その先を国道1号線が通っているため、ここからは行くことができない。参道左側には旧市場公会堂があり、線路の手前左手には、旧中山郷郷蔵が保存されている。
街道を進んで十字路を右折し、名鉄名古屋本線の踏切を渡り、国道1号線を土管のようなトンネルで潜ると、正面に徳性寺、その東側に阿弥陀寺、その隣が津島神社である。
津島神社は、加宿市場村の鎮守であり、往古は 「牛頭天王宮」 と称していたようで、祭神は 「須佐之男命」 である。明治2年(1869)に社名を 「津島社」 と改名し、その後、津島神社と称するようになったという。

阿弥陀寺 徳性寺 明星院 高札場跡
津島神社に隣接して浄土宗西山深草派の白馬山阿弥陀寺がある。
阿弥陀寺は、現在無住であり、西にある徳性寺が管理している。
本尊は木造阿弥陀如来坐像で、境内には谷汲山と刻まれた文政7年(1824)の十一面観音菩薩が安置されている。
阿弥陀寺の西側に浄土宗西山深草派の大嵓山徳性寺がある。
徳性寺は、慶長16年(1611)法蔵寺第11代長翁教安上人が開山で、山中郷市場村に堂宇を建立したのが始まりという。
境内には、正徳2年(1712)宿場の人々に大火事を知らせた白狐を祭神とする徳性寺稲荷大明神などがある。
街道に戻って十字路を過ぎると、左手に真言宗醍醐派の弘法山明星院がある。
明星院は、元来、密教系寺院で創建は不明であるが、市場と共に加宿市場に来たと伝えられている。扇子山の戦いで徳川家康に放たれた矢が見知らぬ武士に当たり、片目を潰し姿を消した。その後、家康が明星院を訪れた際、祀られていた不動尊の姿形が片目を潰した武士に似ていたことから、不動尊の化身と感謝されたと言われている。
街道に戻って、小川を越えると右手に藤川宿高札場跡がある。
この高札場跡は藤川町と市場町との境にあり、明治21年新政府地籍作成に当たり、本来三間四方あり、大きな高札場であった。

称名寺 問屋場跡 旧野村家住宅(米屋) 森川家本陣跡
高札場跡から程なく左手に浄土宗西山深草派の厳松山称名寺がある。
称名寺は、永禄11年(1568)の創建で、開山は法蔵寺第7世の貫主であった教翁洞恵上人とし、当初は当地字王子ヶ入に創立されたという。境内には鐘楼、地蔵堂、三十三所観音菩薩のほか、武田信玄の弟武田成信の墓などがある。
街道に戻ると、直ぐ右手に問屋場跡がある。
解説によると、藤川宿では、ここを御伝馬所とも称していた。
この問屋場については、記録によると、問屋弐人、年寄五人、帳付四人、飛脚番六人、人馬差六人、小使六人とある。
問屋場跡に続いて、街道左手に景観重要建造物に指定された旧野村家住宅(米屋)が建っている。 続いて右手に冠木門のある森川家本陣跡があり、敷地内には、2つあった井戸の一つが復元され、藤川宿解説、本陣跡解説、高札場解説が建っている。
また冠木門の脇には、高札場が復元されており、敷地の北側には当時の石垣が保存されている。

橘屋脇本陣跡 藤川宿碑 関山神社常夜燈 伝誓寺
本陣跡の直ぐ隣に橘屋脇本陣跡がある。
街道に面して建つ門は、享保4年(1719)に建築された門で、岡崎市の史跡に指定され、奥の建物は藤川宿資料館となっている。
門を潜ると脇本陣標柱、脇本陣跡解説などがあり、門前には藤川村道路元標が建っている。
脇本陣跡の斜向かいの筋にポケットパークがあり、東海道藤川宿碑と藤川宿の概要などが記された看板が建っている。 藤川宿碑の直ぐ先、右手筋に関山神社の常夜燈が建っている。
関山神社は藤川宿の鎮守であり、社殿は本陣方向を向いている。街道からは、やや距離があるので寄らずに先に進むこととした。
直ぐ先で百田川に架かる宿場橋を渡ると、左手に浄土真宗大谷派の松音山伝誓寺がある。
伝誓寺は、かつて大蓮坊という天台宗の寺であったが、室町時代の中頃、蓮如上人の教えに帰依、改宗して浄土真宗の寺となった。
本堂内には、阿弥陀如来立像が安置され、隣に親鸞聖人画像・彰如上人画像があり、欄間には左甚五郎が彫ったという龍が掛けられている

西棒鼻跡 十王堂 藤川一里塚跡 名残松
先に進むと藤川小学校の前に、藤川宿の西口に当たる西棒鼻跡がある。
ここには西棒鼻解説、榜示杭、街道往還図のほか、歌川広重の師匠である歌川豊広の描いた浮世絵の中にある狂歌碑などがある。
西棒鼻跡の直ぐ先に十字路があり、この左角に十王堂が建っている。
境内には地蔵堂のほか、寛政5年(1793)の芭蕉句碑 「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつはた」 がある。
十王堂から程なく、左手の民家の前に藤川の一里塚跡がある。
解説によると、藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830-43)頃には南側はすでに無くなり、北側の榎は昭和初期には枯れてなくなってしまったという。
ここは江戸日本橋から数えて79里目の一里塚である。
一里塚跡から100m程進むと、右手に7~8本の名残松がまばらに並んでいる。

吉良道道標 松並木 常夜燈 阿弥陀寺
名鉄名古屋本線の手前にY字路があり、この中央に文化11年(1814)の吉良道道標が建っている。
左は江戸時代の脇街道吉良道であり、入口には、この吉良道道標のほか、左側には地蔵堂があり、宝暦2年(1752)の地蔵菩薩と十一面観音菩薩が安置されている。
名鉄名古屋本線の踏切を越えると、クロマツの並木が続いている。
慶長9年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植え、現在、藤川町の西端約1㎞の間に90本あまりのクロマツが植えられている。
松並木を抜けると、国道1号線に合流する手前右手に常夜燈が2基建っている。 国道1号線に合流して進んで行くと、左手に浄土宗の異香山阿弥陀寺がある。
阿弥陀寺の創建年代等は不詳であるが、山門の手前には三面の馬頭観音・地藏菩薩坐像、慶應2年(1866)の子育地蔵菩薩が安置されている。

旧道口 坂下橋 松並木 西福寺
阿弥陀寺から200m程先の左手に旧道口がある。 やや下り坂の旧道を進み、竜泉寺川に架かる坂下橋で渡って行く。 坂下橋の先でやや広い道路を横断すると、その先で美合新町交差点までの150~60mの区間に松並木が続いている。 松並木を抜けて美合新町交差点を越え、次の美合町南屋敷交差点を左折すると、右手に浄土真宗本願寺派の普門山西福寺がある。
西福寺の創建年代等は不詳であるが、住宅街にある割には、境内には植栽が多い寺院である。

地蔵寺 日吉神社 岡崎源氏蛍発祥地碑 高橋
西福寺から100m程北西に浄土宗西山深草派の生田山地蔵寺がある。
地蔵寺の創建年代等は不詳であるが、
境内には地蔵堂・観音堂・稲荷大明神があり、本堂に抱き地蔵がある。
地蔵寺から坂道を南西に100m程上ったところに日吉神社がある。
日吉神社は、寛平3年(891)に近江国坂本山王より勧請され、本殿は貞享4年(1687)に建立されたといわれる。
明治5年(1872)に村社に列せられ、明治10年(1877)に若宮社・八幡社・秋葉社・天神社・津島社・稲荷社などを合祀した。
街道に戻って県道48号線との交差点を右折して、国道1号線を左折した右手に岡崎源氏蛍発祥地碑が建っている。
傍らには、芭蕉句碑 「草の葉を 落ちるより飛ぶ ほたるかな」 のほか、交通安全を祈った嘉右衛門の宿・運転者憩の家碑がある。
街道に戻って県道48号線の交差点を直進していくと、右手から流れる山網川に架かる高橋で渡って行く。
高橋の先には、乙川に向かう直線の道で、東海道道標と名残松がある。
乙川に突き当たると、往時にあった大平橋は無いので、右から迂回して国道1号線の大平橋を渡って対岸の水神社へ出る。

水神社 薬師寺 秋葉山常夜燈 道標
国道1号線の大平橋で迂回して水神社(大平川神社)前に出る。
この水神社は、古くは蛇篭堰堤の守護神として大平川の中州に安置され3回ほど遷宮された。境内には、大岡越前守縁りの堰堤竣工記念碑が建っている。
水神社から街道を北上して国道1号線を横断すると、右手に浄土宗西山深草派の東光山薬師寺がある。
薬師寺の創建年代等は不詳であるが、境内には鯖大師、子育水子地蔵尊のほか、たくさんの観音菩薩・地蔵菩薩が並んでいる。
薬師寺の先右手の火の見櫓のところに、文化4年(1807)の秋葉山常夜燈が建っている。 その先、男川小学校西交差点の逆Y字路に昭和34年(1959)の道標があり、左面 「つくて道」、右面「東海道」 と刻まれている。 

西大平藩陣屋跡 専光寺 大平一里塚跡 秋葉山常夜燈
道標から直ぐ先の岡崎大平郵便局の前に、西大平藩陣屋跡碑があり、この角を90m進むと右手に西大平藩陣屋跡がある。
ここは 「大岡裁き」 で有名な大岡越前守が一万石の大名になってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋が置かれたところである。
跡地には大岡越前守の解説などのほか、大岡家の守り本尊 「豊川咤枳尼尊天」 を祀った大岡稲荷社がある。
街道に戻ると右手に真宗大谷派の上野山専光寺がある。
専光寺の創建年代等は不詳であり、街道に面して門柱が建っているが、その奥の山門から本堂は西大平藩陣屋跡の近くに位置している。
先に進むと左手に大平一里塚跡がある。
東海道の一里塚は永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である本多重次の子成重が築いたものである。
現在の大平一里塚は、昭和3年(1928)に道路改修の際、北側の塚は破壊され南側だけが残ったもので、江戸日本橋から数えて80里目の一里塚である。
大平一里塚跡の向かいに昭和9年(1934)の秋葉山常夜燈が建っている。
この常夜燈は皇太子殿下御降誕記念と刻まれており、今上天皇陛下の御誕生を記念して建てられたものである。
傍らには地蔵堂があり、南無延命地蔵尊と三面六臂の馬頭観音が安置されている。

大平八幡宮 道標 筋違橋 法光寺
先に進んで国道1号線に合流する手前の右手に大正12年(1923)の常夜燈が対で建っており、ここから200m程先に大平八幡宮がある。
大平八幡宮の創建年代等は不詳であるが、かつて大平西城という城があり、多門越中守重信、伝十郎重正父子が居城したと言われている。
境内に遺構は残っていないが、三姫社・筆神社・大森社などの境内社がある。
街道に戻って国道1号線に合流し、150mほど先で岡崎インターの乗降高架を三か所潜る歩行者のための道標が建っている。 岡崎インターの乗降高架を潜って一旦国道1号線に合流し、その先の岡崎インター西交差点を渡って、右手の更沙川に沿った旧道を進むと、更沙川に架かる筋違い橋がある。 筋違橋を渡って進むと、自然と右手の登り坂を進むこととなり、坂の右手に真宗大谷派の一澤山法光寺がある。
法光寺の創建年代等は不詳であるが、山門は最近改修されたと思われる鐘楼門である。

秋葉山常夜燈 冠木門 道標 根石原観音堂
程なく右手に文化13年(1830)の秋葉山常夜燈が建っている。 坂道を上り詰めた左手の三角地帯に冠木門があり、植栽の前に岡崎城下二十七曲り碑が建っている。二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590-1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本多康重が伝馬町を慶長14年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと言われる。
ここは岡崎城下の東口(江戸口)である。
冠木門を右折して進むと、若宮町2丁目交差点角に木柱道標が建っている。
ここにはモニュメント、石柱道標、二十七曲り解説碑が建っているが、この先旧道曲がり角には、木柱道標か石柱道標の両方若しくは何れかが建っている。
先に進むと右手に根石原観音堂がある。
根石寺(根石原観音堂)の創建年代は不詳であるが、本尊の聖観世音菩薩は悪病退散祈願のために行基が作成したものと言われている。
また徳川家康の嫡男信康が、天正元年(1573)の初陣の際、この観音菩薩を祈願し軍功を挙げたと言われている。境内には岡崎三十六地蔵尊、四国西国秩父坂東納経塔などが建っている。

法圓寺 道標 祐伝寺 道標
続いて街道右手に真宗大谷派の法圓寺がある。 法圓寺を過ぎると、その先の十字路手前に道標 「これより両町角まで310m」 がある。
この交差点でやや右に曲がるが、ほほ直線の道である。
次の十字路を左折すると右手に真宗高田派の根石山祐伝寺がある。
祐伝寺の創建年代等は不詳であるが、境内には信長の命により天正7年(1579)に浜松で殺害された徳川家康の正室・築山御前の首塚がある。首塚は小さな五輪塔で、解説が無ければ目にも留めないようなもので、植栽の前にひっそりと佇んでいる。
街道に戻ると、次の十字路角に木柱道標と石柱道標が建っている。
木柱道標には 「これより次の伝馬町角まで80m」 と記されている。

秋葉山常夜燈 道標 円頓寺 岡崎宿伝馬歴史プロムナード
道標から間もなく右手の両町公民館前に覆屋に納められた秋葉山常夜燈がある。
この常夜燈は両町の角に火災防止の祈願から遠州秋葉山永代常夜燈として寛政2年(1790)に建てられたものである。その後、昭和20年7月の空襲で災禍に遭い、昭和47年までその原型を留めていたが、痛みが進んで危険となったため宝珠を残して安置保存したものである。
常夜燈の直ぐ先の十字路角に木柱道標と石柱道標が建っている。
木柱道標には 「これより次の伝馬通一丁目角まで660m」 と記されている。
伝馬4丁目西交差点を過ぎると、右手筋の突当りに日蓮宗の清信山円頓寺がある。
円頓寺は正保2年(1645)岡崎城主水野忠義が母供養のために建立したが始まりで、その後、水野家に代わって本多政朝が岡崎に入ることとなり、法華信仰に熱心でった正室のために建てた成就寺を円頓寺に合流した。
伝馬交差点角に岡崎宿伝馬歴史プロムナード碑があり、この先通りの両側に歴史的な事項をモニュメントにした石造物が建っている。
全部を見て回るのは大変なので2~3写真を撮ってみた。

永田屋 道標 道標 旧商工会議所
伝馬通りの左手に老舗を感じさせる看板の永田屋精肉店がある。
創業は天保14年(1812)と言われている。
伝馬通一丁目交差点の左角に西本陣前角と刻まれた道標がある。
西本陣は、この交差点右角のコンビニエンスストア付近にあった中根家が勤めていた。敷地前に本陣跡標柱があったようであるが、左側を歩いていたため見落とした。
西本陣前角を左折して直ぐ、次の十字路角に木柱道標と明治2年(1869)の石柱道標が建っている。
木柱道標には「これより次の籠田惣門碑まで170m」と記され、石柱道標には 「東・京みち」 「西・京いせ道」 「きらみち」 と刻まれている。
道標の直ぐ先、右手に旧商工会議所が建っている。
この建物は、大正6年(1917)岡崎銀行本店として建てられた赤レンガと花崗岩の組み合わせによるルネッサンス風の建造物である。戦後、商工会議所として使われていたが、現在は岡崎信用金庫資料館として一般公開されている。

籠田惣門跡 田中吉政像 籠田公園 道標
旧商工会議所の直ぐ先の十字路の右手中央分離帯に籠田惣門跡がある。
天正18年(1590)徳川家康が江戸に移ると、田中吉政が岡崎城主となり、総堀を築き城下町を形成し東海道の城内出入口として籠田松葉の惣門を建てた。
籠田惣門跡の先を進むと、中央分離帯の反対側に籠田公園を向いた田中吉政像が建っている。田中吉政は、1590~1600年までの岡崎城主であり、当時菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて 「岡崎二十七曲り」 の基礎を造り、また惣堀(田中堀)を築造するなど、城下町の整備を行った。 田中吉政像の向かいに籠田公園がある。
入口に建っているのは、戦災復興之碑であり、公園の右端に東惣門にあった寛政10年(1789)の常夜燈が移設されている。
街道は、この公園を突き抜けていく。
籠田公園を突き抜けたところの十字路角に石柱道標が建っている。
道標には 「籠田町より連雀町角」 と刻まれている。

岡崎城対面所前角 材木町口木戸前碑 道標 大林寺
籠田公園角の道標から真っ直ぐ西に進み、本町一丁目交差点を過ぎた右手一本目筋の左角に岡崎城対面所前角碑が建っている。
向かいには木柱道標があり 「次の材木町口角まで80m」 と記されてる。
街道はここを右折するが、岡崎城対面所は外来使節応対や領民の公事、評定を行った場所である。
岡崎城対面所前角から80m先の突当りに材木町口木戸前碑が建っている。
左手には木柱道標があり、「これより次の材木町角まで100m」 と記されている。
材木町口木戸前から100m進んだ十字路に木柱道標があるが、これまでの岡崎二十七曲り図では、材木町口木戸前から一本目を右折し、突当りを左折、次の十字路を右折、その先の十字路を左折する道筋が街道である。
この左折する角に木柱道標 「これより次の柿田橋角まで350m」 がある。
材木町3丁目交差点を左折すると右手に浄土宗の拾玉山大林寺がある。
大林寺は、明応2年(1493)当時の岡崎城主・松平信貞が創建した寺であり、境内には家康の祖父・松平七代清康とその夫人春姫、家康の父・広忠の墓のほか、松平氏入城以前の岡崎城主・西郷頼嗣、松平信貞の墓もある。

唐弓弦の看板 道標 白山神社 道標
街道に戻って進むと、柿田橋の手前右手に旧家があり、唐弓弦と記された庵看板が下がっている。
唐弓弦とは、江戸時代使用されていた綿を打つ道具のことで、これを扱っていた店の看板がこの旧家に現存している。
柿田橋の手前左角には木柱道標があり、「これより次の三清橋角まで190m」 と記されている。 柿田橋の手前を左折すると、川沿いに石柱道標 「材木町より下肴町角」 があり、左手段上に白山神社がある。
白山神社の創建年代等は不詳であるが、境内には天文16年(1547)の建立当時の卍紋のある鬼瓦が保存されて、参道には観音菩薩が祀られている。
伊賀川に沿って進むと突当りの手前右手に石柱道標 「下肴町より田町角」 があり、ここを右折して伊賀川に架かる三清橋を渡る。

道標 道標 道標 道標
三清橋を渡って直ぐ、左手の側道に木柱道標 「これより次の田町北角まで45m」 が建っている。 45m先に石柱道標 「田町北角」 があり、台座に道筋が示されており、本来はこの石柱から左折する道筋であった。
道筋は宅地等の整備で消滅しているため、この先の角を左折して行く。
田町北角から真っ直ぐ進むと国道1号線に突き当たり、ここに石柱道標 「田町角」 がある。
ここの台座にも道筋が示されており、旧道は国道1号線で消滅しているため、右に進んで横断歩道で迂回する。
八帖交差点の歩道橋で迂回し、旧道は一本目を右折するが、ここには石柱道標 「板屋町入り口」 のほかに、東海道 「←岡崎城下二十七曲り→」 の標識が建っている。

白山神社 岡崎城 道標 松葉総門跡
街道を進み100m程先の左手筋を入って行くと、白山神社がある。
白山神社は、もともと岡崎城内の白山曲輪内にあり岡崎城内の産土神として崇敬されていたが、永禄9年(1566)に徳川家康が厄除開運祈願の為、上州新田(群馬県)から勧請したと伝えられている。
境内には推定樹齢600年、胸高囲7.7m、根囲9.4m、樹高12.5mのクスノキの古木がある。
街道に戻って、次の左手筋を入ると岡崎城がある。岡崎城は、三河国守護代・西郷弾正左衛門頼嗣が龍頭山砦として築城したの始まりで、享禄4年(1531)松平清康が岡崎城主となり、天文12年(1543)家康が誕生した。
城内には産湯の井戸、家康誕生時のえな(胞衣)を埋めた 「えな塚」 、芭蕉句碑 「木のもとに汁も鱠も佐久良哉」 などがある。
街道に戻ると左手に石柱道標 「板屋町角」 があり、この向かいの路地を右折していくのが街道である。
道標を右折せず20m程進むと、右手に板屋稲荷神社がある。
街道を進んで中岡崎町交差点を渡ると、左角に松葉総門跡碑が建っている。
ここは岡崎城の西出入り口で、天正18年(1590)徳川家康が江戸へ移り、田中吉政が岡崎城主となり総堀を築き城下町を形成したときに、東海道の城内出入口として松葉総門を建てたところである。
ここには木柱道標 「これより八帖町突当り角まで400m」 が建っている。

早川橋 八丁味噌 八丁蔵通り 道標
先に進むと愛知環状鉄道線の高架下を流れる早川に早川橋が架かっている。
早川橋の渡り詰め左手には、八帖村碑・連続テレビ小説 「純情きらり」 の出演者八名信夫さんの手形などがある。
早川橋を渡ると東海道を挟んで、まるや八丁味噌、カクキュー八丁味噌の2社がある。
左手には連続テレビ小説 「純情きらり」 のロケ地となった 「まるや八丁味噌」 があり、中に入ると日吉丸石投の井戸がある。
まるや八丁味噌は延元2年(1337)創業、カクキュウ八丁味噌は正保2年(1645)創業であり、江戸時代から伝統製法で味噌作りを行っている。
まるや八丁味噌の向かいの筋は八丁蔵通りと呼ばれ、通りの右手にカクキュウ八丁味噌が建っている。味噌蔵は国道1号線の近くまで続いている。
路地脇には、連続テレビ小説 「純情きらり」 の出演者宮崎あおいさんの手形、八丁味噌解説碑などがある。
街道はT字路に突当り、左手に道標 「右西京 左江戸」 が建っている。
街道はここを右折して矢作橋へ向かう。

矢作橋 出会之像 矢作町並み 勝蓮寺
矢作橋東詰めから地下通路を通って国道1号線の右側に出て矢作橋を渡って行く。
矢作橋は、矢作川に架かる東海道中一の大橋であり、寛永11年(1634)に幕府によって架けられた橋であった。
その長さは、二百八間(約370m)であった。
矢作橋のに渡り詰め右手に蜂須賀小六と日吉の 「出会之像」 が建っている。
ここには明治天皇御駐蹕之所碑、明治35年(1902)の旧矢作橋親柱などがある。
出会之像から右手の筋を入ると矢作町である。矢作の地名は、矢作りの技術集団 「矢作部」 が住む村であったことに由来する。 矢作町に入ると直ぐ右手に真宗大谷派の勝蓮寺がある。
勝蓮寺の創建年代等は不詳であるが、柳堂勝蓮寺と言われ、所蔵する古書には、寺を訪れた親鸞上人と柳堂、布教の記事がみられる。また、家康の長男信康の唯一の肖像画が保存されている。
境内には地蔵堂と思われる御堂に石が安置されている。

弥五謄神社 誓願寺十王堂 竊樹(ひそこ)神社 福萬寺
街道を暫く進むと右手に弥五謄神社がある。弥五謄神社は矢作町の氏神様で、正平元年(1346)に夢告を得た居守堀田家の弥五郎正泰が、武内大臣及び平定経の二座を祀り、当時の人が弥五郎殿と呼んだのが始まりという。
参道入口には、溺死菩提と刻まれた南無妙法蓮華経題目がある。
続いて右手に誓願寺十王堂がある。
誓願寺は、長徳3年(997)恵心僧都が、溺死した当時の住僧の慶念の冥福を祈り、御堂を建てたのが始まりである。ここには源義経を慕って身を投じた浄瑠璃姫の菩提があり、義経が姫に贈った名笛 「薄墨」 と姫の鏡が安置されている。境内には保育園があり、中に入ることは出来ないが、十王堂には十王が安置され、壁には地獄・極楽の絵が描かれている。
更に街道を進んで行くと右手に矢作町四区の鎮守である竊樹神社がある。
竊樹神社の創建年代等は不詳であるが、かつて上矢作村上之切組の加茂大明神の北方に櫃竊大明神(ひつこそだいみょうじん)があったと言われ、その後幾多の変遷を経て此の地に遷座したようである。
参道口には地蔵堂があり、境内奥には不明な句碑が建っている。
竊樹神社の直ぐ先、左手に真宗大谷派の護水山福萬寺がある。
福萬寺の創建年代等は不詳であるが、境内には太子堂があり聖徳太子が祀られている。

暮戸神社 聖善寺 薬王寺 宇頭駅
福萬寺の先の矢作町猫田交差点で国道1号線に合流すると、程なく左手に暮戸神社がある。
暮戸神社の創建年代等は不詳であるが、暮戸村の鎮守である。
暮戸交差点から宇頭町に入り、鹿乗川に架かる小さな鹿乗橋を渡ると、左手に浄土真宗本願寺派の聖善寺がある。
聖善寺の創建年代等は不詳であるが、本堂には慶長4年(1597)に再興した木造孝養太子像が安置され、境内には孝養太子像の製作とほぼ同時期に植えられた(推定400年)の枝垂れ桜の老樹がある。
聖善寺の国道1号線を挟んだ向かい側に浄土宗の和志王山薬王寺がある。
薬王寺は、古墳時代中期の宇頭大塚古墳の後円部に建てられており、奈良時代に創建されたと伝えられている。本尊の薬師瑠璃光如来は17年に一度御開帳される秘仏である。門前には新四国第四番弘法大師標柱、安永4年(1775)の常夜燈、文化8年(1811)の常夜燈などが建っている。
本日は宇頭町で終了し、薬王寺の先の宇頭町交差点を左折して名鉄名古屋本線の宇頭駅から東岡崎駅に戻って宿泊する。

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