旧笹屋こと寺田又治郎方は、今の矢作町大字矢作字市場の矢作川堤防上に在りました。明治元年9月28日及び12月16日の2回、明治天皇がここで御休憩されました。
 この石碑は、紀元(皇紀)二千六百年記念に建てられたものです。

明治天皇御駐蹕之所碑

出会之像解説

明治35年(1902)の旧矢作橋親柱

 日吉丸(後の豊臣秀吉)は尾張国中村(今の名古屋市中村公園)の木下弥兵衛(弥助)と妻のお仲の子で、8才のころから奉公にだされましたが、12才の時の奉公先の陶器屋を逃げ出しました。家へ帰ることもできず東海道を東へ下る途中、空腹と疲れで、矢作橋の上で前後不覚で寝ていました。
 ここに海東群蜂須賀村(今のあま市)に住む小六正勝(後の蜂須賀小六)という野武士の頭が、手下をつれてこの付近を荒らし矢作橋を通りかかりました。通りざまに眠りこけている日吉丸の頭をけったところ、日吉丸は、「頭をけり、ひと言のあいさつをしないのは無礼である。詫びて行け」 と、きっとにらみつけました。小六は子どもにしては度胸があると思い、手下にするからその初手柄を見せよといいました。
 日吉丸はすぐさま承知し、橋の東の味噌屋の門のそばの柿の木によじ登り、邸内にはいり扉を開けて、小六たちを引き入れました。目的を果たし逃げようとした時、家人が騒ぎだしました。日吉丸はとっさに、石をかかえ井戸に投げ込み、「盗賊は井戸に落ちたぞ」 と叫び、家人が走り集まるすきに、すばやく門を抜け、小六たちの一行についたといいます。
 史実とは異なりますが日吉丸と小六とのこの伝説は、後の太閤秀吉と、武将蜂須賀小六の人間的一側面を語る物語として、今なお私たちの心に生き続け、乱世の時代劇を垣間見る挿話となっています。
 この伝説を後世に語り継ぐため、ここに石彫を建立するものです。