宿場には様々な施設がありました。 中でも中心となるのは、人々を休泊させる本陣、脇本陣、旅籠、茶屋などの休泊施設と、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を
次の宿場に送るという継ぎ送り業務を行う問屋場でした。 本陣、脇本陣は大名や公家、公用で旅をする幕府の役人といった上流階級の客を休泊させ、一般の旅行者は旅籠屋、茶屋などに休泊しました。
藤川宿には当初2軒の本陣があり、一番本陣、二番本陣として本陣、脇本陣の役割を果たしていました。 しかし、藤川宿は東亜軌道の中でも規模の小さい宿であったこと、西隣の岡崎宿が栄えていたことから、ここに宿泊する旅行者は少なく、
本陣、脇本陣の経営は厳しいものでした。 そのため、本陣、脇本陣の経営者は退転と交代を繰り返しました。
本陣は現在の藤川駐在所等の隣地を含めた長方形の土地に建っていました。 本陣の間取り図によると、建物は街道沿いに建ち、敷地の北側は畑になっていました。
井戸は二か所あり、中庭に面した座敷がありました。 北側の畑を囲っていた石垣は現在も残されており、北の山々を望む眺望は江戸時代のままです。 本陣の規模としては大きなものではありませんでしたが、藤川宿の中では一番の格式を誇っていました。
明治に入り、廃藩置県が行われ、本陣と脇本陣はその役目を終えました。 その際に本陣を営んでいたのは森川家でした。 平成21年、その御子孫である森川武氏から、岡崎市へ土地が寄附され、平成26年に藤川宿本陣跡広場として整備されました。
また、西側にある脇本陣跡には石垣や享保4年(1719)に建築された門が残っており、岡崎市の史跡に指定されています。 現在は、藤川宿資料館が建ち、藤川宿に関わる資料が展示されています。
岡崎市教育委員会
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌慶長6年、東海道の集落に 「伝馬(駒曳)朱印状」 を下付して 「宿駅」 を指定するとともに、公用の旅行者のために、「伝馬」
三六疋を用意することを命じ、その代償として地子(地代)を免除しました。 これが近世宿駅制度の始まりです。 慶長9年からは幕府の命により、日本橋を起点とした五街道の整備が開始されました。
慶長6年に整備された藤川の宿は、品川から数えて37番目の宿駅でした。
中世における藤川の集落は山綱川の北岸にあったとされ、戦国時代末期に現在地に移った新しい集落であることが文献資料から推定されています。 東海道の交通量の増加に伴い、寛永15年(1638)に幕府から常備人馬の増加(人足100人、馬100疋)を命じられた際には、
宿は困窮しており、これに応じることができないほどの状態であったといいます。 そのために慶安元年(1648)、代官の鳥山牛之助により、藤川宿を補強するために山中郷市場村(現在の市場町)68戸を藤川宿の東隣に移住させる
加宿措置がとられましたが、藤川宿の負担は重いものでした。
天保14年(1843)の 「宿村大概帳」 の記録によると、藤川宿の総人口は1,213人、家数は302軒となっています。 これは、東海道五十三次の中では小さな宿場の部類に入ります。
しかし、藤川宿には本陣、脇本陣、問屋場や高札場、棒鼻などの施設もあり、宿駅としての務めを十分に果たすものとなっていました。
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高札場は、法令等を記載した高札を、関所などの交通の要所や人々が活発に出入りする市場などに掲げ、 民衆に周知させるための場所として設置されていました。
宿場にも設置され、各宿間の距離を測定する基点ともされていました。
代表的な高札としては、寛文元年(1661)や正徳元年(1711)のものが挙げられます。 藤川宿の高札は六枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、岡崎市の文化財に指定されています。
その内容は、
①「藤川よりの駄賃並人足賃」
②「駄賃並人足荷物次第」
③「親子兄弟夫婦みな親しく」
④「切支丹禁制」
⑤「毒薬にせ薬種売買の事禁制」
⑥「火付け用心」
これらの文面は、民衆への周知のために、簡易な仮名交じり文や仮名文が用いられました。 多くの人が目にする高札場は幕府の権威を示すものでもあったため、移転や消えてしまった文字の墨入れにも許可が必要でした。
そのため、幕府や藩により 「高札番」 という役職が設けられ、厳しく管理を行っていました。
藤川宿の高札場は、問屋場の東に設置されていましたが、本陣跡広場の整備に伴い、ここに復元されました。
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高札場説明
本陣跡説明
本陣内に2つあった井戸の一つが復元されている
冠木門脇に復元された高札場
本陣裏側(北側)に石垣が残されている
藤川宿説明