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東海道   (宇頭~有松)


平成29年6月4日(日)   ☀|☁   宇頭~有松  18.1㎞
本日も終日好天が続く予報であり、街道は昨日の続きの宇頭からほぼ名鉄名古屋本線に沿って進み、途中池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく)を通り、桶狭間古戦場のある有松辺りまでの予定である。

乙川 松並木 東高根用水紀念碑 予科練之碑
午前5時30分、東岡崎駅前の明代橋から見る乙川は、穏やかで、まるで鏡のように周囲の景色を写し込んでいる。
乙川は、この先で矢作川に合流している。
東岡崎駅から7分で宇頭駅に到着する。
宇頭町交差点で国道1号線に出て先に進むと、程なく尾崎東交差点の手前から右に旧道があり、直ぐに松並木の道となる。
松並木を過ぎて尾崎町を進んで行くと、右手に東高根用水紀念碑が建っている。傍らには常夜燈、手水石などtがある。 直ぐ先の熊野神社の入口右脇に予科練之碑が建っている。
ここは第一岡崎海軍航空隊跡であり、戦局が悪化して戦力増強を図るため、昭和19年2月練習航空隊を設置し、昭和19年4月に岡崎海軍航空隊となり、昭和20年に第一岡崎海軍航空隊と改称された。
傍らに予科練の碑解説、元第一岡崎海軍航空隊配置図などが建っている。

熊野神社 尾崎の一里塚跡 地蔵堂 妙教寺
熊野神社の創建年代等は不詳であるが、境内には秋葉神社のほか、山上社・白山社・海津美社・厳島社・社口社が合祀された境内社がある。 熊野神社入口左脇に尾崎の一里塚跡があり、傍らに鎌倉街道跡解説が建っている。
ここは鎌倉街道の分岐点であり、江戸日本橋から数えて83里目の一里塚である。
先に進むと宇頭茶屋交差点の左角に、桜の木に隠れて地蔵堂が建っている。
地蔵堂には、五郎兵衛地蔵尊の扁額が掛かっている。
地蔵堂から程なく左手に法華宗陣門流の法喜山妙教寺がある。
妙教寺は長年眼病に悩み続けた日喜上人が、喜徳真天を守護神として勧請し、明治36年に自宅に志貴協会を設立したのが始まりという。
境内には観音堂、喜徳稲荷、不動明王、地蔵堂などがある。

内外神明社 明治天皇碑 永安寺 明治用水記念碑
妙教寺の斜向かいに内外神明社がある。
内外神明社の創建年代等は不詳であるが、祭神は天照大神であり、境内には大正2年(1913)の常夜燈、大正9年(1920)の明治神宮鎮座祭記念梅樹碑などがあり、社殿奥に境内社の稲荷神社がある。
街道を進むと左手の民家前に、昭和15年(1940)建立の明治天皇御駐蹕之所碑が建っている。
ここは高井善兵衛の茶屋 「藤屋」 跡で、この辺りは立場茶屋が何軒かあったところである。
明治天皇御駐蹕之所碑の先で用水路を越えて浜屋町に入ると、右手に曹洞宗の本然山永安寺がある。
永安寺は、大浜茶屋村の窮状を訴えて刑死した庄屋柴田助太夫の霊をまつる寺である。
境内には、推定樹齢350年の雲竜の松と呼ばれ、境内を覆い尽くすようなクロマツがあり、傍らには西国三十三所観音が並んでいる。
先に進むと明治川神社交差点を渡った右角に明治用水記念碑が3基建っている。
明治用水は、明和2年(1765)三河国碧海郡和泉村に生まれた都築弥厚が、文政10年(1827)幕府に嘆願書を出したが、用水が完成する前に病没した。その後、築家所有の開拓地の農民・岡本兵松と岡崎の庄屋・伊豫田与八郎の立安計画を共同計画とし、明治13年(1880)に明治用水が完成した。

明治川神社 松並木 日吉神社 松並木
明治用水記念碑の向かいに明治13年(188)創建の明治川神社がある。
明治川神社は、大水上祖神・水分神のほか、明治用水建設の功労者である都築弥厚・伊豫田与八郎・岡本兵松・西沢真蔵を祭っている。参道を進むと両部鳥居の礎石跡があり、その先に明治用水の流れを引き入れた神池に架かる太鼓橋がある。
明治川神社を過ぎると断続的に松並木が続いている。 松並木が始まって間もなく、右手に日吉神社があり、参道口に明治40年(1907)の常夜燈が建っている。
日吉神社の創建年代等は不詳であり、参道は駐車場となっているため、隣の舗装路を進んで行くと赤い両部鳥居がある。
境内には大正14年(1925)の狛犬、伊勢神宮と津島神社が合祀された境内社、土地改良碑などがある。
街道は、この先里町4丁目西交差点まで断続的に続く松並木の道となる。

地藏菩薩 青麻神社 専超寺 崇福寺
里町4丁目交差点を渡った左手に、やや風化した地蔵菩薩がブッロクに囲まれて安置されている。 里町4丁目交差点の先右手に、青麻神社があり、鳥居の奥に小社が建っている。
ここには地蔵堂と江戸時代に活躍したこの地の力士・清見潟又市 像や清見潟又市碑などたくさんの石碑が並んでいる。
次の今本町8丁目交差点を左折すると、右手に真宗大谷派の専超寺がある。
専超寺の創建年代等は不詳であるが、境内には親鸞聖人幼少像、納経蔵などがある。
専超寺に隣接して西側に臨済宗妙心寺派の高根山崇福寺がある。
崇福寺の創建年代等は不詳であるが、専超寺同様、江戸時代からこの地に有ったことは分かっている。山門左側には、三猿、道標を兼ねた石仏、子育地蔵尊などがあり、境内には薬師堂・観音堂・礼拝石などがある。

松並木 小社 猿渡川橋 来迎寺公園
街道に戻って進むと、左手の浅賀井製作所の倉庫前から松並木が始まり、先に進むほど松の樹回りが太くなっていく。 松並木の先で石田川に架かる石田橋を渡ると、右手に新田組建立と刻まれた大正3年(1914)の常夜燈が建っている。
常夜燈の奥に昭和50年(1975)の鳥居があり、その先に瓦屋根を葺いた小社が建っている。石田川はこの先で猿渡川に合流している。
続いて石田川と合流した猿渡川に架かる猿渡川橋で渡って行く。
平成4年に竣工の猿渡川橋の欄干には松並木のレリーフが施されている。
猿渡川橋を渡って安城市から知立市に入ると、左手に来迎寺公園がある。
公園の一角には、玉乃井と言われる井戸跡、陸海軍大演習が明治天皇観閲のもとに行われたことを記念した建てられた錦旗千載駐饒光(きんきせんざいよこうにちゅうす)碑などがある。

御鍬神社 道標 来迎寺一里塚 源心寺
来迎寺公園の直ぐ先、右手に来迎寺村の鎮守である御鍬神社がある。
御鍬神社は、江戸時代来迎寺村をはじめ、近隣の村々が連合して伊勢より御鍬神社を勧請して祈願したのが始まりである。
境内には山神社・弁天社・秋葉社を祀った合祀社がある。
直ぐ先のT字路、来迎寺町交差点の右角に元禄9年(1696)の道標が建っている。
道標には 「八橋山無量寺」 「従是四丁半北 八橋 業平作観音在」 「天下和順」 と刻まれており、在原業平ゆかりの八橋山無量寿寺への道しるべとして建てられたものである。
無量寿寺は、ここより500m程北にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
先に進むと、程なく街道両側に松が植えられた来迎寺の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて84里目の一里塚である。
来迎寺一里塚の北塚の前を入ると、左手に真宗大谷派の古城山源心寺がある。

来迎寺 泉蔵寺 牛田八幡社 西教寺
源心寺に隣接して北側に臨済宗妙心寺の紫雲山来迎寺がある。
来迎寺は、承平元年(931)山城の国宇治平等院からこの地に来た来迎寺印という僧により開創されたと言われている。ここは織田方の今崎城があったところで、今崎城は永禄3年(1560)今川方に攻められて落城となった。
境内には、安永7年(1778)の地蔵菩薩、経塚などがある。
街道に戻って、次の信号交差点を左折すると、左手に赤穂浪士吉田忠左衛門夫妻の墓あり、その先に泉蔵寺がある。
泉蔵寺の創建年代等は不詳であるが、本堂には聖観世音菩薩が祀られ、境内には子育地蔵菩薩がある。
泉蔵寺に隣接して牛田八幡社がある。
牛田八幡社は、昔この辺りが牛橋村と呼ばれていた頃、まだ神社がなく、泉蔵寺の僧侶の黒滝湖音という人が誉田別命の姿をしたご神体を作り、村の人達が作った小さなお社に奉納したのが始まりと言われている。
境内には山之神社・稲荷神社などを合祀した境内社と戦没英霊を祀った清霊社がある。
街道に戻って、やや左に曲がる道を300m程先に進むと、左手に真宗大谷派の西教寺がある。
西教寺の創建年代等は不詳であるが、境内には経蔵があり、傍らに享和3年(1803)に再建された旧本堂の鬼瓦が保存されている。

道標 道標 知立松並木 池鯉鮒碑
西教寺の先を進み、前方に衣浦豊田道路の高架が見える手前の左筋角に道標が建っている。道標には 「見返弘法大師従是十四丁」 「御室御所御直末重原村道」 「天下泰平国土安全」 と刻まれている。
この道標は、知立弘法山遍照院への道しるべで、遍照院にある弘法大師像がやや右を向いていることから見返弘法大師と呼ばれているこに由来する。
衣浦豊田道路の高架手前に元禄12年(1699)の道標が建っている。
道標には 「八橋山無量寺」 「従是五丁北八橋業平作観音在」 「天下和順」 「元禄十二巳卯年三月吉日施主敬白」 と刻まれている。
来迎寺一里塚の手前にもあったが、この道標は在原業平ゆかりの八橋山無量寿寺への道しるべとして建てられたものである。
衣浦豊田道路の高架を過ぎると、知立の松並木となり、この先の国道1号線との交差点まで続いている。 松並木に入ると直ぐ左手に平成7年の池鯉鮒(ちりゅう)碑が建っている。
碑には 「旧東海道参拾九番目之宿池鯉鮒」 「江戸日本橋八拾四里拾七町」 「京都三条四拾壱里」 と刻まれている。

小林一茶句碑 馬市跡碑 観音菩薩 池鯉鮒宿碑
松並木の下には、小林一茶句碑 「はつ雪や ちりふの市の 銭叺(かます)」 が建っている。
近辺には双体道祖神や鯉などの池鯉鮒に関する解説付きのモニュメントが建っている。
松並木を進んだ左手に、万葉歌碑 「引馬野に にほふはりはら いりみだれ 衣にほはせ たびのしるしに」 と馬市之址碑が建っている。
年に一度、毎年4月末から10日間催された馬市では、全国から馬が約500頭も集められ、近郷近在の人々で賑わったという。
松並木の街道が国道1号線に突き当たる手前右手に、交通安全の観音菩薩が建っている。 国道1号線との交差点を地下道でくぐると、出たところに東海道池鯉鮒宿碑が建っている。
街道は、宿碑の先のY字路を左に進んで行く。

地蔵堂 慈眼寺 町並み 山町祭蔵
先に進んで、名鉄三河線を越えた先の逆Y字路中央に地蔵堂がある。 地蔵堂から程なく右手の吉富米穀店の角を右折して行くと、曹洞宗の福聚山慈眼寺がある。慈眼寺の創建年代等は不詳であるが、江戸時代初期に馬の供養の為につくられたお堂から始まったと言われている。
境内入口には家畜市場碑があり、境内には大地蔵・北向き地藏・飯地蔵・蚕地蔵のほか、観音堂・稲荷社などがある。
街道に戻ると、ほぼ直線の町並みが続いている。 慈眼寺から街道に戻って、最初の十字路を左に入ると山町祭蔵がある。
ここには知立祭りで使われる山車が収納されており、知立祭りでは山車文楽(人形浄瑠璃芝居)や、からくりが上演される。祭蔵の向かいは広場になっており、その一角に薬師堂があり薬師三尊像が安置されている。

旧家 常夜燈 地蔵堂 称念寺
街道に戻ると、右手に虫籠窓の付いた町屋建築の旧家がある。 程なく左手に明治41年(1908)の常夜燈が建っている。 直ぐ先で六叉路の中町交差点となり、街道は斜めに横断した細い筋を進んで行くが、六差路を左に折れると大きな旧家の塀の前に青い地蔵堂があり、2基の地蔵菩薩が安置されている。
この大きな旧家は、隣の称念寺の敷地内にある。
旧家の隣に真宗大谷派の一向山称念寺がある。
称念寺は、元応2年(1320)道性によって開かれたと言われ、当初、池鯉鮒宿の中心部にあったが、宝永2年(1705)の大火により、池鯉鮒宿の家々と共に寺は焼失した。その後、享保元年(1716)現在地に移り小さなお堂を建て、その約50年後に本堂が建立された。
現在の本堂は、平成28年から平成29年にかけて再建されたものである。

問屋場跡 旅籠柳屋跡 本陣跡 本町山車蔵
中町交差点の六差路から北西に狭い街道を進むと、右手の食品館美松の前に池鯉鮒宿問屋場之跡碑が建っている。
問屋場の設立は慶長6年(1601)で、敷地は135坪(445㎡)、最終建築は安政4年(1807)で昭和46年(1971)に取壊しとなった。
直ぐ先の十字路左角に池鯉鮒銘菓都築屋美廣がある。
ここは旅籠柳屋跡であり、向かいの本町公園は脇本陣跡である。
都築屋美廣の先の変則十字路を左折すると、街道の南西を走る県道51号線側に本陣跡があり、池鯉鮒宿本陣跡碑・明治天皇行在所聖跡碑・本陣跡解説などが建っている。 街道に戻ると左手に本町山車蔵がある。
ここには知立祭りで使われる山車が収納されており、知立祭りでは山車文楽(人形浄瑠璃芝居)や、からくりが上演される。現在、山町・中新町・本町・宝町の4台の山車で 「三番叟」 「傾城阿波の鳴門」 「壷坂観音霊験記」 「神霊矢口の渡し」 などが上演される。

宝蔵寺 池鯉鮒宿碑 知立城趾 了運寺
山車蔵の先でT字路に突当り、街道は右折するが、左折して県道51号線を越えた右手に曹洞宗の亀岳山宝蔵寺がある。
宝蔵寺は、喜祥3年(850)に慈覚大師円仁により開かれたのが始まりと言われ、当初は天台宗の寺院であったが真言宗に改宗し、正徳5年(1715)に江水禅師により中興され曹洞宗に改宗した。境内には慶長5年(1600)石田三成の命で徳川家康の命を狙い討ち取られた加賀野井弥八郎重茂の墓などがある。
街道に戻るとT字路の突当りに東海道池鯉鮒宿碑が建っている。
碑の上部に 「⇐ 岡崎 鳴海 ⇒」 と刻まれ、道標となっている。
直ぐ左手に知立城址があり、石垣の上に青銅製の明治天皇駐蹕址碑が建っている。
奥は児童公園になっており、知立古城址碑・御殿址碑・明治天皇御小休所址碑が建っている。知立古城は桶狭間の戦いで落城し、江戸時代の初めには将軍の休泊用の御殿となっていた。
知立城址の先のT字路突当りに浄土宗の神前山浄林院了運寺がある。
了運寺は、平安時代に天台宗の高僧・慈覚大師が知立神社の別当寺院として開山したのが始まりと言われている。当初は天台宗であった明応2年(1493)浄林了運大和尚が浄土宗に改宗した。
本堂にはタイ国渡来の釈迦如来像が安置され、境内には、知立三弘法第二番札所の弘法堂・延命地蔵尊・三十三観音などがある。

常夜燈 総持寺跡の大イチョウ 知立神社 総持寺
了運寺前を左折すると、右手に下る筋の左角に文化4年(1807)の常夜燈が建っている。
常夜燈の竿石には 「池鯉鮒大明神」 「○○永井左京」 「文化四年丁羊三月神直日」 と刻まれている。
これは知立神社の常夜燈で、道標を兼ねている。
先に進むと、豊田南バイパスの手前右手に総持寺跡の大イチョウが立っている。
この大イチョウは樹齢200余年を経た今も樹勢が衰えていない。 元和2年(1616)ここに玉泉坊を創建、貞享3年(1686)総持寺と改称、明治5年(1872)廃寺となり境内は民間の手に移った。 総持寺はその後大正15年(1926)に西町新川に再建されている。
豊田南バイパスを横断地下道でくぐって先に進むと、右手に知立神社がある。
参道には、安永7年(1778)の池鯉鮒大明神常夜燈が建っており、境内には永正6年(1509)再建の多宝塔・御手洗池に架かる享保17年(1732)の太鼓橋・寛政5年(1793)の芭蕉句碑のほか、親母神社・小山天神社・秋葉社などの境内社がある。参道脇には知立花菖蒲苑があり、ちょうど見頃であった。
街道に戻ると左手に天台宗の神路山松智院総持寺がある。
総持寺は、嘉祥3年(850)慈覚大師円仁(平安時代の天台宗の高僧)がこの地を訪れた際、知立神社の別当寺院となる神宮寺を開いたことに始まると言われている。境内には徳川家康の側室お万の方誕生地碑、開山堂・観音堂・愛染堂などのほか、不動明王が祀られている。

逢妻橋 一里塚跡 旧道口 旧道口
街道を先に進むと逢妻川に架かる逢妻橋の前に出る。逢妻川は、4~500m上流で逢妻男川と逢妻女川が合流して逢妻川となる。
川の名は、在原業平と杜若(かきつばた)姫に由来する。杜若姫は小野中納言篁の娘と伝えられ、東下りの在原業平を恋い慕って、やっと八橋の逢妻川で追いついたが、業平の心を得ることができず、悲しんで池に身を投げたと伝えられている。
逢妻橋を渡って国道1号線に合流し、341㎞ポスト辺りで知立市から刈谷市に入ると、一里山歩道橋橋脚の左側(南)に一里塚跡碑が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて85里目の一里塚である。
先に進むと国道1号線の右側(北)に旧道が残っている。
この旧道は左を流れる水路に沿っており、程なく国道1号線に突き当たって分断されるが、反対側の延長線上の旧道へ続いている。
国道1号線に突き当った旧道は、反対側の延長線上へ続いているので、近くにある今岡歩道橋で迂回して行く。

十王堂 長屋門 洞隣寺 今岡町並み
旧道に入ると、直ぐ右手の民家に組み込まれた十王堂がある。
堂中には三面六臂の馬頭観音、地蔵菩薩半跏像、弘法大師が安置されている。
十王堂の直ぐ先、左手に大きな長屋門の旧家がある。 程なく左手に完成8年(1796)の秋葉山常夜燈が建っており、この奥に曹洞宗の今岡山洞隣寺がある。
洞隣寺は、天正8年(1580)の開山と云われ、開祖は刈谷城主水野忠重である。境内には地蔵堂・行者堂・秋葉堂があり、墓所には何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国中津藩士の墓があり、その隣に刈谷の昔話でよく聞かれるめったいくやしいの墓がある。
洞隣寺の先はほほ直線の道で、あまり車の往来が無い長閑な街道である。

乗願寺 旧家 乗蓮寺 富士松駅前
先に進むと左手に真宗木辺派の天林山乗願寺がある。
乗願寺は、天正15年(1587)の創建で、はじめ地蔵寺といった。 当初は真宗を内に、表向きは浄土宗としていたが、のち真宗木辺派に改めた。
堂に刈谷城主水野忠重の位牌がまつられている。
乗願寺から程なく、右手に連子格子の大きな旧家があり、その先も街道を挟んで数軒の旧家が建っている。 旧家のある街道を進むと、右手に真宗大谷派の今川山乗蓮寺がある。
乗蓮寺は江戸時代前期の草創と言われ、境内には推定樹齢850年のシイがあり、市天然記念物に指定されている。 幹の根元に大きな空洞があって、昔タヌキが棲んでいたと言い伝えられている。
乗蓮寺を出ると左手に名鉄名古屋本線の富士松駅があり、駅前ロータリーにサッカー少年のモニュメントと小さなお富士松がある。
桶狭間の合戦のあと、今川勢が東海道を西へ急ぐ旅人を織田方の回し者として切り殺してしまい、これを見た村人は旅人を丁寧に葬り、そこに1本の松を植えた。この松が富士松の地名の由来である。お富士松は当初ここより約200m南東にあったが、昭和34年の伊勢湾台風で枯れてしまったため、ここへ新たに植えられた。

地蔵堂 旧道口 境橋 光廣歌碑
富士松駅を過ぎると、県道282号線を今川歩道橋で渡り、先に進んだ逆Y字路の中央に地蔵堂があり、二体の地蔵尊が安置されている。
地蔵堂の先は国道1号線で分断されるが、その先、国道1号線を越えた延長線上に旧道が続いている。
国道1号線を地下トンネルでくぐると、国道1号線の右手に延びる旧道がある。 旧道を進んで、用悪水路に架かる二股橋を渡ると、その先に境川に架かる境橋がある。
ここは三河と尾張の国境であり、慶長6年(1601)東海道に伝馬制度が設けられ、程なく尾張と三河の立会で橋が架けられた。
この橋は、中程より西は板橋、東は土橋で、多くの旅人の足をとどめたが、度々の洪水に流され、修復された。やがて、継ぎ橋は一続きの土橋になり、明治になって欄干つきになった。
境橋渡り詰め右手に、光廣歌碑 「うち渡す 尾張の国の 境橋 これやにかわの 継ぎ目なるらん」 が建っている。
狂歌集、古今夷曲集が刊行された寛文6年(1666)当時の境橋は、尾州側は木橋、三州側は土橋の所謂継橋として有名であった。 詠み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸と称された。

伊勢湾岸自動車道 西蓮寺 旧道口 阿野一里塚跡
先に進むと国道1号線に合流するが、ここは伊勢湾岸自動車の豊明インターがあるため、乗降する高架が入り組んでいる。 国道1号線に合流して豊明駅前を過ぎると、右手のむつみ保育園の裏手に真宗大谷派の怡雲山西蓮寺がある。
西蓮寺は、明応年間(1492-1501)の創建で、了祐による開基である。
本尊は阿弥陀如来である。
国道1号線を進み、正戸川に架かる正戸橋を渡ると、その先の県道57号線の高架手前で左に進む旧道がある。 県道57号線の高架を潜って間もなく、街道両側に阿野の一里塚跡がある。
写真は街道左の南塚であるが、塚上に文化5年(1808)の道標、市雪句碑 「春風や 坂をのぼりに 馬の鈴」 が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて86里目の一里塚である。

明治天皇碑 坂部善光寺 西雲寺 地蔵堂
先に進むと豊明小学校の先左手に、医家であった三田家の庭内に明治天皇東阿野御小休所碑が建っている。
庭内に入れないが、塀越しに覗くと解説板も建っており、「明治元年9月御東幸の際28日、同年12月御還幸の際17日、明治2年3月再度御東幸の際17日、明治11年10月北陸東海御巡幸の際28日、御小休所となり処にしてよく舊規を存せり」 と記されている。
三田家の斜向かいに坂部善光寺がある。
坂部善光寺は、三田柳庵が善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像を受け、開眼供養したものである。
境内には、坂部善光寺の解説板のほか、尾張三弘法舊霊札所と刻まれた道標などもある。
坂部善光寺から程なく、前後駅前交差点の右角段上に真宗大谷派の上宮山西雲寺がある。
西雲寺の創建年代等は不詳であるが、境内には文政11年(1828)の手水石がある。
前後駅前交差点を渡った最初の右手筋を入ると、Y字路中央に地蔵堂がある。
地蔵堂には、陽刻の地蔵尊が祀られており、碑面には文字が刻まれ、道標を兼ねているようである。

道標 旧家 戦人塚 神明社
街道に戻ると5~60m程先の右手に道標が建っている。
この道標は風化が激しく文字は正確に判読できないが、「祐福寺ふくた原道」 「文化四丁卯年」 などの文字が確認できる。祐福寺はここより4km程北にある浄土宗の寺院で、桶狭間の合戦の前日に今川義元が宿泊したと伝えられている。道標の奥の木の下には、地蔵堂があり小さな地蔵尊が一体安置されている。
道標の直ぐ隣に連子格子の旧家がある。 先に進んで、クボタ農業機械の先の右手筋を上って行くと、国道1号線を越えた先に国指定史跡の戦人塚がある。
ここは永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで戦死した今川方の将兵約2500名を埋葬した塚であり、塚上には元文4年(1739)に180回忌の供養として建てられた戦人塚碑と永禄3年(1560)の南無阿弥陀仏名号碑などが建っている。
街道に戻ると、右手に神明社社標と明治43年(1910)の常夜燈が建っており、その先国道1号線を渡ったところに神明社がある。
神明社の創建年代等は不詳であるが、境内には檻に入れられたような境内社がある。

寂応庵跡 地蔵堂 桶狭間古戦場 高徳院
街道に戻ると、右手の落合公会堂前に寂応庵跡碑が建っている。
ここは街道を通行する旅人に茶の接待を行った尼僧の庵があったところと言われている。
碑の側面には 「無垢清浄光慧日破諸闇」 と刻まれている。
先に進むと国道1号線に合流し、名鉄名古屋本線高架の手前左手に地蔵堂がある。
地蔵堂には、地藏菩薩と聖観音菩薩が安置されている。
名鉄名古屋本線の高架を潜って進むと、香華山高徳院の巨大な看板があり、そこを左に入ると桶狭間古戦場がある。
一帯は公園になっており、今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和8年(1771)七石表が建てられ、文化6年(1809)には桶狭間弔古碑が建てられた。
折しも桶狭間古戦場祭が開催されており、一帯は人波で溢れていた。
桶狭間古戦場の向かいの高台に高野山真言宗の香華山高徳院がある。
高徳院の創建年代等は不詳であるが、幾多の変遷を経て明治26年(1893)に高野山より寺の名を請い受けて高徳院とした。
桶狭間合戦当時にはなかったが、この地は今川義元の本陣があったとされる場所であり、境内には今川義元公本陣跡碑があり、本堂には今川義元公の位牌を安置している。

旧道口 舘秋葉神社 秋葉神社 旧道口
国道1号線に戻ると、直ぐ先左手に旧道があり、200m程先で国道1号線に合流する。 街道を100m程進んだ左手の高台に舘秋葉神社がある。
舘秋葉神社は、
明治18年(1885)有松の竹田庄九郎によって遠州秋葉山にある秋葉神社の御神札を拝受し、火防の神として創建された。
国道1号線に合流して程なく、右手に秋葉神社がある。
この秋葉神社の由来等は、全く不明である。
秋葉神社の先の大将ヶ根交差点で右に入る旧道がある。
この旧道入口にはコンクリート造の地蔵堂があり、一体の地蔵尊が祀らrている。交通安全地蔵尊と思われる。

鈴木朖歌碑 地蔵堂 松野根橋 有松絞りまつり
先に進むと、右手の建物の前に離屋鈴木朖の歌碑 「たちならぶ 花にしきと家ごとに かけ渡したる くりり染かな」 がある。
鈴木朖(すずきあきら)は、宝暦14年(1764)生れの江戸後期の儒学者で、号を離屋といい、文政4年(1821)尾張藩御儒者に抜擢された。 
鈴木朖歌碑の直ぐ先、右手に地蔵堂がある。
中には地蔵尊とは違い、丸く平たい石が安置されている。
地蔵堂の先のY字路左に手越川に架かる松野根橋があり、この橋を渡ると間の宿であった有松に入って行く。
折しも、第33回有松絞りまつりが開催されており、通り抜けるだけでも大変なので、宿並みは翌日改めて見ることとした。
街道は人波で溢れて、ちょっと移動するのも大変な状態であり、ゆっくりと流れに乗って、暫し絞りまつりを見学することとした。

天満宮 二代目松 梅屋鶴壽の歌碑 祇園寺
有松の宿並みの外れも近づいた右手に天満宮の社標があり、社標の奥を進んで行くと名鉄名古屋本線の跨線橋の先に天満宮がある。
天満宮は元祇園寺境内の神祠であったが、寛政10年(1791)この地に奉遷され、以来絞り産業の町・有松の産土社と仰がれている。秋祭りには山車三台 「布袋車・唐子車・神功皇后車」 が曳き出される。
社殿は長い石段の上にあり、秋葉社・神明社・稲荷社などの境内社がある。
街道に戻ると、右手に東海道二代目松があり、傍らに東海道二代目松碑が建っている。
碑には、「この松は東海道が開かれた当時からこの場所にあった樹齢三百年のなごりの大木から採種し育てたものです」 と刻まれている。
二代目松の隣に梅屋鶴壽の歌碑 「あり松の 柳しぼりの 見世にこそ しはしと人の 立ちとまりけれ」 が建っている。
梅屋鶴壽は幕末の狂歌師で、享和元年(1801)江戸神田佐久間町に生まれ、 姓はは諸田、通称は初め佐吉、後、亦兵衛と称した。株を商い、尾州家の御用を勤め、若い頃から狂歌を得意とし、始めは長屋姉子、又は松枝鶴壽とも号したが、 後に長谷川町に待合茶亭、梅の屋を出し梅屋鶴壽と言うようになった。
更にその隣に、曹洞宗の大雄山祇園寺がある。
祇園寺は、文禄年間(1592-95)の創建で、当初は鳴海にあり、円道寺といったが、宝永3年(1706)に猿堂寺と改称し、宝暦5年(1755)に現在地に移転し祇園寺と改めた。
本尊は釈迦牟尼仏で、境内には三十三観音や、地蔵菩薩・薬師如来・不動明王などの石仏がある。本日はここで終了し、明日もう一度、松野根橋から歩こうと思う。

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