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東海道   (赤坂~本宿)


平成29年3月12日(日)    ☀|☁    赤坂~本宿  7.0㎞
本日は、東京へ帰ることもあり午後の早い時間には切り上げる予定であるため、隣の本宿までくらいとなる。本宿は法蔵寺の門前町として形成され、江戸時代には間の宿として発展した。昨日の続きは、赤坂宿の赤坂紅里交差点からとなる。

尾崎屋 浄泉寺 旅籠大橋屋 正法寺
名電赤坂駅から10分程で赤坂紅里交差点へ出ると、右手に明治元年(1868)創業の尾崎屋がある。
二階に曲物民芸品製造卸売問屋の軒行燈を掲げている。
尾崎屋の斜向かいに浄土宗の玉清山常泉寺がある。
浄泉寺は、天正16年(1588)に創建され、開祖は教山善誉上人である。安永5年(1776)に再建された本堂に阿弥陀如来が安置され、境内には広重の東海道五十三次に描かれたソテツが残っている。
浄泉寺を出ると左手に旅籠大橋屋がある。
大橋屋は慶安2年(1649)創業で、旧屋号を鯉屋といい、現在の建物は正徳6年(1716)の建築といわれる。赤坂宿の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口9間、奥行23間ほどであった。
入り口の見世間・階段・二階の部屋は往時の様子を留めている。
大橋屋の直ぐ先左手に真宗大谷派の太子山正法寺がある。正法寺は、推古天皇の時代(592-628)に聖徳太子を祀ったのが始めとされ、貞永元年(1232)親鸞上人が関東から帰京の途次、太子堂を訪れたとき、親鸞に教化されて寺を太子山上宮院正法寺に改め、天台宗から浄土真宗に改宗した。
境内には、推定樹齢500年のイヌマキ、織田有楽斎ゆかりのウラクツバキがある。

龍泉寺 御休処「よらまいかん」 赤坂陣屋跡 軒下ギャラリー
正法寺の向かいの路地を北に入って行くと、真言宗醍醐派の観音山龍泉寺がある。
龍泉寺の創建年代等は不詳であるが、本堂前には新旧いろいろな燈籠が建っており、傍らには役行者像などがある。
街道に戻ると左手段上に御休処 「よらまいかん」 がある。一階は休憩スペースで、二階には赤坂宿の浮世絵が展示されている。
街道に面して、東海道赤坂宿碑と広重の東海道53次の内赤坂旅宿招待図が建っている。
御休処 「よらまいかん」 の斜向かいに赤坂陣屋跡がある。 赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、当初この奥の大薮地内に設けられたが、元禄2年(1689)神木屋敷(現赤坂保育園附近)に移された。
幕末に三河県役所と改められ、手狭になったため明治2年(1869)再び大薮地内へ新築移転された。 廃藩置県後、明治5年に廃止となった
街道を先に進むと、左手の連子格子の家の軒下に色々な陶器などが並べられている。
立て掛けられた板には、「紅里桃江作品展」 と記されている。

杉森八幡社 見付跡 十王堂跡 秋葉山常夜燈
程なく街道右手に 「郷社八幡社」 の社標と鳥居があり、その奥に杉森八幡社がある。
杉森八幡社は、大宝2年(702)持統上皇が、東国巡幸のとき、伊勢神宮領御廚跡に大神宮・八幡社を勧請したと伝えられている。
境内には、推定樹齢1000年の楠、回り舞台を備えた芝居小屋 「赤坂の舞台」 がある。
街道に面した杉森八幡社一の鳥居の左手の民家前に見付跡がある。
ここは赤坂宿の西口に当たるところである。
見付跡の斜向かいの筋角に十王堂跡がある。
十王堂跡の標柱の先端には、かつてあった地蔵菩薩像の写真が貼られ、筋を挟んだ向かいの角には小さな祠があり、弘法大師像が安置されている。
十王堂跡の直ぐ先左手に秋葉山常夜燈がある。
皇紀2600年(昭和15年)の神武天皇即位の記念行事で建てられたものである。

名残松 開運毘沙門天王尊 長閑な街道 旧家
街道を進むと右手の音羽中学校の前に名残松が立っている。 音羽中学校を過ぎると、右手の細い路地角に開運毘沙門天王尊碑が建っている。
昭和8年(1933)建立で、「開山三百年記念・御嶽教心願講心巴組先達鈴木富象」 と刻まれている。
開運毘沙門天王尊碑の先は、左手に山が迫り、車は殆んど通らない長閑な一本道である。 長閑な街道を進むと、所どころに連子格子の立派な旧家が建っており、往時を偲ばせている。

栄善寺 八王子神社 一里山庚申道道標 八王子橋
左手に山が迫ったところに浄土宗西山深草派の大永山栄善寺寺標が建っている。
栄善寺は、文永9年(1272)派祖証空善慧上人二世法孫円空立信上人の創立した寺である。
境内へ上がる石段脇には、役行者・馬頭観音などがある。
この寺は無住であり、鐘楼に梵鐘が無く寂れた感がある。
街道に戻って先に進むと、左手筋角に八王子神社社標が建っている。
八王子神社の創建年代等は不詳であるが、永禄10年(1568)6月に上八王子の音羽川の辺りにあった社地から現在の地に移されたという。鳥居の先から急な石段となり、石段の途中に手水石があり、拝殿の前には、玉を足元に置く「玉取り」 と子供の狛犬をあやしている 「子取り」 が一対となっている狛犬がある。
街道を進むむと、音羽川の手前のガードレール前に、一里山庚申道道標が建っている。
道標の下部は地中に埋まって、「是ヨリ」 までしか見えていない。一里山は、一里塚を言うので、この先の長沢の観音堂かその先の庚申堂らしき建物を指しているのか不明である。
道標の直ぐ先で、音羽川に架かる八王子橋を渡ると、その先に県道73号線の高架が見えている。

庚申道? 長沢一里塚跡 長沢城跡 観音堂
八王子橋を渡ると、再び長閑な一本道の街道が続いている。
これが庚申道であろうか。
長閑な街道を進むと、左手の畑の前に長沢の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて77里目の一里塚である。
程なく右手の長沢小学校のところに長沢城跡解説がある。
長沢城は、長禄2年(1458)松平信光の子・親則が築城した戦略上重要な位置に建てられた城であった。
この向かいの音羽川沿いには、廃屋化した大きな旧家が建っている。
長沢小学校隣の長沢地区市民館を右に曲がると、突当りの階段上に観音堂がある。
観音堂の入口に、三尊種子板碑が建っている。この板碑は、鎌倉時代から室町時代における石の板で作られた供養塔のことである。
境内には、千手観音菩薩像、寛政9年(1797)の常夜燈などがある。

児子社社標 庚申堂? 誓林寺 巓(だけ)神社
街道に戻って先に進むと、右手筋に児子社社標が建っている。
参道は国道1号線・名鉄名古屋本線・東名高速道路によって分断されている。児子社の創建年代は不詳であるが、明暦2年(1656)の棟札が残っているという。
直ぐ先の誓林寺前バス停の手前で街道が右にカーブする所に庚申堂らしき建物があり、建物前に地蔵尊が建っている。 街道を曲がると右手に浄土真宗本願寺派の古谷山誓林寺がある。
誓林寺は、源氏の武士・高梨高直が親鸞聖人の弟子となり、山中村に草庵を建てたのが始まりと言われる。その後、ここ音羽の地に移り、領主松平氏により山号を古谷山と改めた。
現在の本堂は、文政7年(1824)に建て替えられたものである。
誓林寺の先で十字路を渡ると、右手筋の角に巓神社社標と寛政10年(1798)の常夜燈が建っている。
巓神社の参道は児子社と同様、国道1号線・名鉄名古屋本線・東名高速道路によって分断されている。巓神社の創建年代等は不詳であるが、宝徳元年(1449)の棟札が残っているという。

旧家 観音堂跡 常夜燈・地蔵堂 立信(りゅうしん)寺
街道を進むと、やや上り坂の左手に連子格子の旧家がいくつか並んで建っている。 更に進んだところに建つ連子格子の家の前に観音堂跡があり、観音菩薩・馬頭観音・歌碑などの石造物が建っている。
歌碑は弘化3年(1846)観音堂の尼・妙香尼が落馬死した旅人の念仏供養のため糟谷磯丸 に歌を依頼して建てたものと言われている。
直ぐ先の右手筋角に安政6年(1859)の常夜燈と地蔵堂・観音堂が建っている。
この筋は浄土宗の立信寺への入口で、参道は国道1号線と名鉄名古屋本線で分断されている。
地蔵堂脇の千束川を大榎橋で渡り、直ぐ先で再び千束川を千両橋で渡ると、右手に国道1号線の関屋交差点がある。
ここで街道を離れて常夜燈のところから見えていた浄土宗西山深草派の長沢山吉祥院立信寺へ寄って行く。立信寺は、文永9年(1272)深草円空立信上人が関東への途次、長沢村石塚辺りで由緒ある阿弥陀如来像に出会い、石塚に小庵を建てたのが始まりと云われている。

赤石神社 市境 本宿碑 冠木門
街道に戻って千束川に沿った細い道を進むと、左手に赤石神社社標がある。
赤石神社は、延暦年間(782-805)信濃国の諏訪大明神の分霊を勧請し、赤石の地に奉斎したのが始まりという。その後、番場太郎致由が永仁年間(1793-98)に登谷ヶ根城を築いた際、清浄なる地として現在地に遷座し、代々の領主住民の崇敬を受け現在に至っている。境内には、秋葉神社・鍬神社・稲荷神社などの境内社がある。
赤石神社社標の先で国道1号線に吸収され、暫く進むと、314キロポストの先で、豊川市から岡崎市に入って行く。 左手の日本精工株式会社の先に、本宿碑と松が一本立っている。
本宿は法蔵寺の門前町として形成され、江戸時代には間の宿として発展した。ここには本宿の詳細な解説板が設置されている。
本宿碑の直ぐ先に常夜燈と冠木門がある。
いずれもモニュメントであるが、ここは本宿の江戸方口(東口)である。

薬師寺 東海道道標 旧家 御草紙掛松
冠木門の先の新箱根入口交差点を渡ると、左手の林のところに浄土宗西山深草派の薬師寺がある。
建物は本宿東町公民館でもあり、一見して寺には見えない。建物の横には、役行者が安置された小御堂があり、林の中には常夜燈が建っている。
薬師寺の直ぐ先に東海道道標・常夜燈・本宿解説が設置されている。
この左手から本宿の集落へ入って行く。
本宿の集落に入って間もなく、左に右に連子格子の旧家が建っている。
写真の旧家の向かい側が法蔵寺である。
法蔵寺の入口に御草紙掛松がある。
寺伝によれば徳川家康公は幼少の頃、当寺にて学問・手習いに励んだと言われる。この松は家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの 「御草掛松」 として永く人々に親しまれてきた。代々受け継がれてきたが、虫害に寄り枯れた。現在の松は4代目の松であり、周囲の石柵は、文化12年(1815)旗本木造清左衛門俊往の寄進である。

法蔵寺 道標 法蔵寺橋 不動院
法蔵寺は、浄土宗西山深草派の三河三檀林の一つで、 二村山と号し、本尊は阿弥陀如来である。 大宝元年(701)僧行基の開山と伝えられ、松平初代親氏が深く帰依して、嘉慶元年(1387)に堂宇を建立し、寺号を法蔵寺としたと言われている。
境内には賀勝水・六角堂・東照宮・新撰組隊長近藤勇の首塚などがある。
法蔵寺から街道に戻ると、鉢地川の手前に東海道道標が建っている。 東海道道標の隣に鉢地川に架かる法蔵寺橋がある。
この橋は大正9年(1920)10月に架け換えられたものである。
法蔵寺橋を渡ると間もなく、右手の本宿町中集会所の門柱に不動院の表札が貼られている。
本宿町中集会所の建物と塀の間に覆屋があり、石仏・石塔が安置されている。

本宿陣屋跡と代官屋敷 景観重要建造物 道路元標 秋葉山常夜燈
不動院の先の左手筋入口に「本宿陣屋跡と代官屋敷」 解説があり、この筋を道なりに進んで行くと代官屋敷跡がある。
解説には、「元禄11年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。 以来明治に至るまで存続した。陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政10年(1827)の建築である。」 と記されている。
街道に戻ると左手に日本レトルトフーズ株式会社の景観重要建造物がある。
建物に貼られたプレートには、アイチ味噌溜店舗と記されている。
日本レトルトフーズ株式会社の斜向かいに建つ火の見櫓の下に本宿村道路元標がある。
道路元標の隣のT字路角に寛政13年(1801)の秋葉山常夜燈が建っている。

欣浄寺 十王堂跡 本宿一里塚跡 神明社
T字路の直ぐ先左手の筋を入って行くと、浄土宗西山深草派の琳光山欣浄寺がある。
欣浄寺の本尊である木造地蔵菩薩坐像は、寄木造玉眼崁入(ぎょくがんかんにゅう)で岡崎市指定文化財になっている。
かつては、東海道沿いの十王堂の本尊として安置されていた。
街道に戻ると左手の本宿町栄集会所前に十王堂跡がある。
解説には、「街道に沿ったこの地に十王堂(閻魔堂)があり旅行者や村人から尊信されていた。 本尊木造地蔵菩薩坐像(鎌倉期)は昭和62年岡崎市文化財に指定された。(非公開)」 と記されている。 
十王堂跡の先右手に本宿一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて、78里目の一里塚である。
一里塚跡の先の十字路を左折して坂道を進み、右手の岡崎信用金庫を右折すると、木々の茂る小丘がある。ここが神明社かと思いきや、登った所には役行者などの石仏があり、その先で小丘を下ったところに神明社がある。
神明社は、元中2年(1385)龍芸和尚が、法蔵寺堂中に祭祀する皇大神を此の地に遷座したのが始まりという

揚珠院 本宿駅
街道に戻ると十字路の先左手に無宗派(単立)の薬王山揚珠院がある。
創建年代等は不詳であるが、本尊は薬師如来であり、街道に建つ寺標の脇に地蔵祠がある。
今回は、ここで終了し名鉄名古屋本線の本宿駅から帰宅の途につく。
名鉄名古屋本線の本宿駅は、国道1号線を渡ったところにあり、その横断地下道には東海道分間延絵図・三州額田郡本宿村絵図が描かれている。

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