寛永9年(1632)に宇治茶を将軍家に献上することに始まったお茶壷道中。 家光は将軍の権威を示すため、毎年江戸京都間を往復する一行の茶壷に、はなはだしく威勢を持たせた。
宿場では百人の人足を出す定めがあり、多いときにはお茶壷奉行はじめ百人以上の行列をもてなさなければいけないので負担も大きく、この茶壷は各宿場から大いに恐れられていた。 行程の都合で岡崎伝馬宿ではこの一行はご馳走屋敷で休んだ。 ご馳走屋敷には岡崎藩の家老が出向き、丁重にもてなしたとの記録が残っている。
飯盛女(飯売女と表わすこともある)は、旅篭屋で旅人の給仕や雑用をする女性であったが、三味線を弾き、唄や踊りも披露する遊女でもあった。
正保・慶安の頃(1644-51)この飯盛女を置く旅篭が岡崎宿にも増えてくると、旅行者以外の遊客も訪れるようになり、宿場の様相に変化が起こった。
旅篭間の競争も激しさを増し、幕府は何度か風紀粛正のため飯売女の人数制限を行ったが、効果はなかった。
以後、岡崎宿の飯盛女は唄に歌われたり紀行文に記されるなどその繁盛ぶりが全国に届くことになった。
飯盛女
江戸時代を通し、友好国であった李氏朝鮮は将軍に向け全12回の使節の派遣をした。
使節は修好・親善だけでなく文化使節としての側面も併せ持ち正使・副使・従事官の他に、 朝鮮第一級の学者・医者・芸術家・楽隊・曲芸師など多彩な文化人が加わった平均五百人からなる大使節団であったので、沿道ではたくさんの見物客が出迎えた。 一行は海路瀬戸内海を抜け、大阪から京都に入り、陸路で江戸に向かった。
岡崎宿は、将軍の慰労の言葉を伝える最初の宿泊地でもあり、岡崎宿の応対は一大行事であった。
朝鮮通信使
お茶壷道中