起伏を利用した室町時代の典型的な山城で、眼下に東海道と額田群南部に至る吉良道、現在の蒲郡市方面に至る西郡道などの 街道をおさえる交通の要衝に位置していました。 山頂(標高204m)と山腹一帯を東西400m、南北200mの規模で主郭・二の郭を中心として帯状の曲輪が囲む三河地方最大規模の連郭式山城でした。 岡崎松平氏の三代信貞の城でしたが、大永4年(1524)に安祥松平氏の清康の命により大久保忠茂らによって攻略され、 以後家康の祖父の清康のものとなりました。 市指定史跡。 平成15年3月

デンデンガッサリ
 市指定無形民族文化財。室町時代に始まる五穀豊穣を祈る古式床しい素朴な御田植神事で正月三日に行われ、 歌詞のはじめに 「デェンデンガッサリヤー」 という詩があるので、こう呼ばれるようになりました。 祭りの内容は、田をあらわす太鼓を中心に 「前歌」 「後歌」 「せりふ」 「所作」 の四部に分かれています。
鳩が窟(はとがくつ)
 永禄6年(1563)の三河一向一揆の戦いで、家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれています。 洞窟の中から白鳩が二羽飛び立ったので、追手の兵は 「人のいるところに鳩などいるわけはない」 といって通り過ぎ、 家康は難を逃れたといいます。
大クスノキ
 樹齢650年と推定され、根回り14m、主幹が二股の御神木で均整のとれた広い樹冠は屈指の樹姿です。 市指定天然記念物。
  平成十五年三月

東海道
 慶長6年(1601)、徳川家康は、東海道の各宿に伝馬朱印状と伝馬定書を発給し、江戸と京都・大阪を結ぶ東西交通路の確保を図りました。 慶長8年(1603)、家康が征夷大将軍に任じられると江戸に幕府を開き、江戸を政治・軍事の中心に位置づけ、江戸日本橋を起点に一里塚を築き、 幕府の直轄交通路として整備しました。 古代・中世の駅馬・伝馬制度にならい、公用の人や物資は無料、公用以外は有料で次の宿駅まで継ぎ送る宿駅伝馬制度を定め、全国的な交通制度に統一しました。 東海道には53の宿駅が設けられ、道巾は約3間半(6.3m)で一里塚や並木が整備されました。
舞木町の由来
 舞木の地名は、山中八幡神宮記の一節に、「文武天皇(697-707)の頃、雲の中より神樹の一片が、神霊をのせて舞い降りる」 と書いてあることから、「木が舞い降りる」 を取って 「舞木」 とつけたといわれます。 また舞木村は、昔は山中郷に属していましたが、慶安元年(1648)に幕府の三河代官が同じ山中郷で隣村である市場村の一部 68戸を藤川宿へ移転させたため、昔の市場村の一部と舞木村が合併して、現在の舞木町になったと言われています。

舞木町由来とベンチ

山中八幡宮解説

山中城址解説