東海道 (富士川~清水)
平成28年3月22日(火) ☀|☁ 富士川~清水 22.0㎞ |
富士川駅に6時02分に到着し、昨日の続きの東名高速道路手前まで出て6時10分に街道歩きのスタートである。本日も雲は多いが天気予報では雨の降る心配はなさそうである。今日は蒲原宿、由比宿を通り、薩堆峠を越えて興津宿を目指すが、明日帰ることを考えると出来るだけ先へ進みたい。 |
東海道道標 | 金鶴神社 | 野田山実相寺寺標 | 竹林 | |||
東名高速道路ガード手前に東海道道標 「中之郷」 があり、隣に野田山健康緑地公園案内図がある。 |
東名高速道路ガードをくぐるとY字路があり、右手の角に金鶴神社登り口がある。 階段を上って行くと山復に昭和42年(1967)に建立された金鶴神社・山之神神社碑が建っている。 |
Y字路中央に野田山実相寺寺標が建っており、聖徳太子・不動明王・弘法大師と刻まれている。 傍らには、薬師如来と刻まれた碑がある。 |
野田山実相寺道標を左に街道を進んで、小池川に架かる小池橋を渡って進むと右手に見事な竹林がある。 |
秋葉山常夜燈 | 宇多利神社社標 | 春埜堂 | 宇多利神社 | |||
竹林の先右手に安政3年(1856)の秋葉山常夜燈が建っている。 火袋には恵比寿神・大黒神が置かれている。 |
秋葉山常夜燈の先の右手に入る道脇に宇多利神社社標がある。 |
宇多利神社社標から右手に進んで行くと高台に春埜堂がある。 石段脇に 「春埜山太白坊大権現御守護」 と書かれた幟が立っており、手前に小御堂・小社があり、石段を登ると小社を納めた覆屋があり、脇に石祠がある。 |
春埜堂から更に山際に進むと宇多利神社がある。 宇多利神社は、元七社権現と称していたが、慶長2年(1597)宗清寺を創立した大嶽宗伯和尚が再建し、宗清寺を同社の別当寺としていたが、神仏分離令で明治8年(1875)宗清寺から分離し、付近の小社を合祀し宇多利神社に改称した。 |
黒里観音堂 | 旧道 | 秋葉山常夜燈 | 明治天皇御駐輦之跡 | |||
宇多利神社の右手、春埜堂の裏手に当たるところに小さな黒里観音堂がある。 御堂の中に厨子があるが閉じられており、観音像は確認できなかった。 |
街道を進んで東海道新幹線の手前で右手の旧道を進んで行く。 | 旧道を進んで東海道新幹線のガードをくぐり、その先で旧道との分岐で左から回り込んできた車道と合流したところに秋葉山常夜燈が建っている。 傍らには富士川町長中川国兵の揮毫による碑が建っている。 |
秋葉山常夜燈の先で、街道が緩やかに右にカーブするところに明治天皇御駐輦之跡碑が建っている。この場所で休憩され富士山を眺めたと言われる。 |
馬頭観音 | 東名高速道路跨道橋 | 馬頭観音 | 光蓮寺 | |||
街道が坂道になると右手の土手斜面に3基の馬頭観音が建っている。 | 坂を上り切ると東名高速道路に沿って進み、跨道橋の新坂橋を渡って行く。 | 跨道橋を渡って進み、下り坂となった右手の民家の脇に馬頭観音が安置されている。 ここには三面六臂の馬頭観音をはじめ6基ほどの馬頭観音が集められている。 |
馬頭観音の向かいに綺麗な塀の浄土宗佛身山海前院光蓮寺がある。光蓮寺は、元和6年(1620)の創建で伝説浄瑠璃姫物語がある。 伝説は平安時代末期、三河国(愛知県)で源義経と恋に落ちた姫が、奥州に向かった義経を追う途中、蒲原の地で命を落とすという物語である。 光蓮寺には、浄瑠璃姫の戒名が刻まれた位牌があるという。 |
源義経硯水碑 | 蒲原の一里塚 | 北条新三郎の墓 | 諏訪神社 | |||
光蓮寺の先でT字路に突当ると街道は右に進むが、左に折れて県道396号線を150mほど進むと左手に源義経硯水碑がある。 ここの湧き水で蒲原神社へ奉納 する文と浄瑠璃姫に文を書いたといわれる。 ここには五輪塔・南無妙法蓮華経題目碑などが建っている。 |
街道に戻って進むと左手に蒲原の一里塚跡がある。 一里塚碑の隣にある解説には、「最初の一里塚は元禄12年(1699)の大津波で流失し、宿の移転にともなってここに移されたが、当時の面影はない」 と記されている。 ここは江戸日本橋から数えて38里目の一里塚である。 |
i一里塚跡の直ぐ先右手に北条新三郎の墓標柱が建っている。 この路地を登って行くと竹林の中に蒲原城主北条新三郎の供養碑が建っている。 永禄12年(1569)蒲原城は武田軍の攻撃で落城し、城主北条新三郎は城から抜け出し常楽寺まで逃れたが、寺に火を放ち自刃したという。 |
諏訪町区会館を過ぎると右手の高台に諏訪神社がある。 この諏訪神社は保元年間に六本松付近に長野県から諏訪大明神の御分霊を勧請して創始されたが、その後、富士川の水害・天明の火災・安政の大地震を経て、現在の地に遷座された。 境内には大正9年の遷座300年記念碑・庚申堂などがある。 |
蒲原宿東木戸跡 | 導水管 | 木屋の土蔵 | 龍雲寺 | |||
諏訪神社の石段隣に蒲原宿東木戸跡があり、 蒲原宿到着である。 ここは僅かな枡形になっており、「宿内安全」 と刻まれた文政13年(1831)の常夜燈が建っている。 |
東木戸跡を過ぎると日軽第2発電所の導水管を越える諏訪橋がある。 | 諏訪橋を渡ると左手民家の塀に木屋の土蔵の案内版がある。 ここ渡辺家は江戸時代末期に問屋を代々務めた旧家で、材木を商っていたため木屋と呼ばれていた。 失礼して庭先に入り込むと静岡市指定文化財の渡辺家土蔵(三階文庫)が建っている。 |
街道がやや左に折れるところに岩戸山の石柱があり、その脇を入って行くと臨済宗妙心寺派の岩戸山龍雲寺がある。 承応2年(1653)高松藩の槍の名人大久保甚太夫が蒲原宿西木戸辺りの茄子屋の辻で薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで乱闘となった。この事件で殺された甚太夫の槍の穂先が残っているという。 |
正八幡神社 | 東漸寺 | なまこ壁の家 | 八坂神社 | |||
龍雲寺に続いて右手に正八幡神社がある。 鳥居の脇に神饌幣帛料下賜社と刻まれた社標が建っており、社殿は急な石段を上った先にある。 |
正八幡神社の隣に」日蓮宗の佛護山東漸寺がある。 東漸寺は、日蓮上人直弟日興上人の弟子中老僧日目上人の開創と言われ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331)に創建された。境内には推定樹齢400年のイヌマキ、木屋の渡邊利左衛門の起立した文政11年(1828)の法界塔がある。 |
東漸寺を過ぎると右手になまこ壁の家がある。 この家は、元 「佐野屋」 という商家で、壁は塗壁で町屋に多く見られる造りであるが、このような町家を 「塗り家造り」 という。 防火効果の大きい塗り家造りは、もともと城郭などに用いられた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと云われている。 |
なまこ壁の家の隣に八坂神社の鳥居があり、鳥居をくぐって進んで行くと八坂神社がある。 八坂神社の創建年は不詳であるが、元禄12年(1699)の大津波で海岸沿いの宿場が壊滅し、元禄16年(1703)この地に移転と同時に成立した神社であるといわれる。当初は、宿民の疫病からの守護を祈願したものと考えられ、宿中央に建造されていたようである。 |
塗り家造りの家 | 問屋場跡 | 蒲原夜之雪碑 | 椙守稲荷神社 | |||
八坂神社鳥居の先左手になまこ壁の塗り家造りの吉田家がある。 この家は、昭和まで続いた 「僊菓堂(せんかどう)」 という屋号で、和菓子を作る商家であったという。玄関は、なまこ壁の 「塗り家造り」 で、中に入ると柱が無く広々とした 「店の間」 造りになっていて、商家らしい雰囲気が残っている。土間には、当時の看板が掲げられており、 「中の間」 には、らせん状の階段があり、二階に通じている。 |
小川の手前右手に問屋場跡がある。 解説によると、ここは蒲原宿の中央に位置し、問屋職、年寄、帳付、迎番、馬指、下働、継飛脚、御触状、持夫の人々が、毎月15日交代で詰めて宿の経営に当たっていたという。 |
問屋場跡の前の小川を左に沿って行くと蒲原夜之雪碑が建っている。 蒲原夜之雪の画は、安藤広重が天保3年(1832)幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたものである。蒲原夜之雪碑は、昭和35年(1960) 「蒲原夜之雪」 が国際交通週間の切手になったことを記念して、この地に建てられた。 |
問屋場跡の奥の山腹に赤い鳥居が3つ並ぶ椙守稲荷神社がある。 |
旅籠和泉屋 | 西本陣跡 | 高札場跡 | 若宮神社 | |||
街道に戻って小川を越えた右手に旅籠和泉屋(鈴木家)がある。 この家は、江戸時代 「和泉屋」 という上旅籠であった。天保年間(1830-44)の建物で、安政の大地震でも倒壊を免れている。二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができる。弘化2年(1845)の 「蒲原宿商売調」 に、「和泉屋間口間数6.1」 とあり、現在は鈴木家4.1間、お休み処2間の2軒に仕切られている。 |
旅籠和泉屋の向かいに西本陣跡(平岡家)がある。 かつては、ここより100mほど東に東本陣(多芸家)があったが、宝暦年間(1751-63)に絶えてしまい、以後幕末までこの平岡家が本陣を務めた。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていた。 |
信号交差点を越えると蒲原郵便局の先の柵区防災倉庫の前に高札場跡がある。 高札とは徳川幕府の禁令、定を記した立札のことで、辻札とも言われた。 正徳元年(1711)に出された五高札が有名で、①伝馬に関する定、②忠孝を奨励する定、③毒薬や贋金銀売買禁止の定、④切支丹宗門禁制の定、➄火付(放火)重罪の定が墨書されて掲げられていた。 |
高札場の右の路地に若宮神社の鳥居が建っている。 この明神鳥居の奥に靖国鳥居があり、直ぐ拝殿があるが、本殿は拝殿の裏から急な石段を上った先にある。慶長16年(1611)の創建といわれており、境内には嘉永元年(1848)の若之宮と刻まれた御神燈が建っている。 |
御殿道跡 | 旧五十嵐歯科医院 | 宿並み | 志田家住宅 | |||
高札場跡の向かいの路地が御殿道跡と言われている。 解説によると、かつて、この辺りに 「蒲原御殿」があり、始めは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものであったが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来す度に拡張・整備され規模も大きくなったが、寛永11年(1634)の家光上洛以降、「蒲原御殿」 は使用されなくなったという。 |
御殿道跡の斜向かいに国登録有形文化財の旧五十嵐歯科医院がある。 この建物は、町家を洋風に増改築した擬洋風建築と呼ばれるもので、外観は洋風、内観は和風というユニークな建物である。水道が無かった時代、井戸水を二階の診療室まで通したポンプや配管も残っている。 名医として知られ、当町在住の元宮内大臣田中光顕伯爵も患者の一人であった。 |
旧五十嵐歯科医院の先は昔の面影を残す宿並みが続いている。 | 街道左手に国登録有形文化財の志田家住宅主屋がある。 志田家は 「ヤマロク」 という屋号で、味噌屋醤油の醸造を営む商家であった。安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側二階建て部分は、「通り土間一列型」 という町屋形式の典型である。蔀戸(しとみど)とは、日光や風雨を遮る戸のことで、上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにとめ、全部開放する時は下のものを取り外した。 |
格子戸の家 | 長栄寺 | 蒲原宿西木戸跡 | 和歌宮神社 | |||
街道を進むと右手に二階建ての格子戸の美しい増田家がある。 格子戸は、古くは平安時代に初めて現れた建具で、伝統的な日本建築工法の一つである。かつては街道沿いに格子戸の家並みが続き、毎日主婦によって磨き込まれた美しい木目が、この町独特の情緒ある風景であった。 |
格子戸の美しい増田家を過ぎて、街道が左に折れる角地に長栄寺の自然石の寺標が建っている。 寺標を右に入って行くと浄土真宗本願寺派の法流山長栄寺がある。境内には親鸞聖人像・本願寺第24代即如御門主御手植えの枝垂れ桜がある。 |
街道を進んで県道396号線に突き当たる左角に蒲原宿西木戸跡がある。 もともと宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれているところにあったが、元禄12年(1699)の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移転した。 この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、大久保甚太夫と薩摩藩の大名行列との間で乱闘が起こった。 |
西木戸跡の直ぐ先右手に和歌宮神社の鳥居があり、130mほど先に和歌宮神社社殿がある。 永禄12年(1569)蒲原城主・北條新三郎綱重が甲斐国武田信玄との戦いに敗れ滅亡したときに社殿や山部赤人の御神像は焼失したが、寛永11年(1634)に再建された。 ご神体は山部赤人・木花咲耶姫命であり、境内には金比羅神社・貞享3年(1686)の庚申塔・忠魂碑などがある。 |
泉龍寺 | 稲荷利神社 | 白泉寺 | 上山神社 | |||
和歌宮神社の隣に曹洞宗の道場山泉龍寺がある。 境内には蒲原宿西木戸にあったという地蔵菩薩像、観音像・廻國供養塔などがある。 |
街道を進んで向田川橋を渡った最初の路地を右に進むと、向田川水系の蛭沢川沿いに稲荷利神社がある。 稲荷利神社の創建年代等は不詳であるが、境内には明治33年(1900)の手水石、大正5年(1916)の本社新築紀念碑などがある。 |
するが路農協蒲原支店を過ぎると、右手の東名高速道路に近い所に曹洞宗の修福山白泉寺がある。 もと真言宗だったが、永禄年間(1558-69)に曹洞宗に改めたと伝わる。江戸初期、香山伝勲が師・貞心寺学峰道を開山に仰ぎ、貞心寺末となった。ご本尊は薬師如来で本堂前には南無薬師如来の幟が立ち、境内には薬師瑠璃光如来像・観音菩薩像などがある。 |
白泉寺の隣に上山神社がある。 御祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)で、狭い境内には石鳥居が二つ続き、直ぐ神門があって鉄筋の社殿がある。 |
貞心寺 | 八幡大神宮 | 一乗院 | 関口神社 | |||
街道右手の細野治療院の看板手前の路地を右手に入って行くと東名高速道路の手前に曹洞宗の安谷山貞心寺がある。 文禄・慶長(1592-1615)成安寺4世林庵逸道が開山し、開基は沼津城に関わる水野家の人と伝えられる照空院が開祖といわれる。 ご本尊は釈迦牟尼仏で、境内には水子地蔵尊が建っている。 |
貞心寺の隣に八幡大神宮があり、天満天神宮が合祀されている。 社殿は東名高速道路のほぼ下にある感じで見え、境内には庚申堂・いぼとり地蔵・推定樹齢450年のタブの木がある。 |
八幡大神宮から街道に戻ると左手に北向不動尊一乗院がある。 ここは山伏修験に属す密教道場であり、役行者より伝わる1300年の歴史をもつ修験道である。 御祭神は大聖不動明王・三寶大荒神・如意輪観音である。 |
一乗院を過ぎるて信号交差点を右に入ったところに関口神社がある。 創建年は不詳であるが、社伝によれば延喜5年(905)頃の創建といわれ、500年以前に社殿が焼失し、天明元年(1781)に再建し、もと住吉神社とも称した。 御祭神は建角美命で、境内には推定樹齢500年以上のシイの木がある。 |
街道家並み | 海宝寺 | 由比 | 水神碑 | |||
それほど交通量の無い街道は、瓦屋根がきれいな家並みが続いている。 | 東名高速道路の下を潜って直ぐ右手の路地を進んで行くと、高台に臨済宗妙心寺派の神澤山海宝寺がある。 開山は天栄澤和尚大禅師で、開創年代は不詳であが、境内には元禄2年(1689)の観世音菩薩・元禄6年(1693)の庚申塔・天明3年(1783)の地蔵菩薩・安永8年(1779)の三界萬霊塔などがある。 |
東名高速道路のガードをくぐったところの神沢信号Y字路に歩行者用ガイドの標柱が建っている。 街道はここで県道396号線と分れて左に進んで行く。 |
神沢信号を左に進んで、途中東海道道標を左に見て進んで行くと由比自主防災会倉庫の脇に水神碑がある。 |
地蔵堂・一里塚跡 | 東木戸跡 | 御七里役所之跡 | 飯田八幡宮 | |||
街道を進むと左手に地蔵堂があり、その裏に由比の一里塚跡がある。 ここは江戸日本橋から数えて39里目の一里塚である。 |
街道がやや枡形になっているところがあり、ここが由比宿の東木戸跡に当たる。 歩道脇の解説板に次のように記されている。 「宿場の出入口は枡形に折れ曲がり、木戸が作られ、万一の攻撃を防ぐなどの治安維持とともに、宿の出入口の道標にもなっていました。ここを通り過ぎると町並みが始まり、本陣、脇本陣、問屋、旅籠、茶屋などが置かれていました。由比宿も東西の出入口は枡形に折れており、現在も面影が残されています。」 |
枡形から程なく右手の民家塀に御七里役所之跡碑が埋め込まれている。 ここは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。七里飛脚とは、江戸時代に西国の大名が江戸屋敷と領国の居城との連絡に置いた直属の通信機関である。 |
街道右手の県道396号線に近い小山の上に飯田八幡宮がある。 飯田八幡宮は天正13年(1585)に建立され、その後周辺の八幡社3社が合併され、更に明治4年(1871)山八幡社が遷座されて5社八幡宮となった。御祭神は誉田別命(応神天皇)である。 |
由比本陣跡 | 正雪紺屋 | 脇本陣饂飩屋 | 明治の郵便局舎 | |||
街道に戻ると右手に由比本陣跡がある。 江戸時代、由比宿には本陣1軒と脇本陣1軒、旅篭屋が32軒あり、相当な賑わいを見せていたと伝えられている。 表門、石垣、木塀、馬の水飲み場などは当時のたたずまいを偲ばせており、表門脇には明治天皇由比御小休所碑、平成13年の天皇陛下・皇后陛行幸啓記念碑が建っている。 |
由比本陣の向かいに正雪紺屋がある。 この家は江戸時代初期から400年も続いている紺屋(染物屋)で、由比正雪(1605~51)の生家である。 慶安4年(1651)第3代徳川家光の死の直後に、幕府政策への批判と浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥など浪人を集めて幕府転覆を計画したが、決起寸前に町奉行に追われ駿府の宿で自刃した。 |
正雪紺屋の隣に脇本陣饂飩屋がある。 由比宿には脇本陣を交代で務めた家が3軒あり、そのうち江戸時代後期から幕末にいたるまで務めたのが、この饂飩屋である。 東海道宿村大概帳(天保12年・西暦1841年)に、脇本陣1軒、凡そ建坪90坪、門構え、玄関付とあるのが、ここだと言われる。 |
脇本陣饂飩屋の隣に明治の郵便局舎がある。 江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では朝日麟一氏によって行われ、飛脚屋と呼ばれていた。明治4年(1871)郵便制度の創設により、飛脚屋は由比郵便取扱役所となり、更に明治8年(1875)由比郵便局と改称された。 明治39年(1906)平野義命氏が局長となり自室に洋風の局舎を新築し、明治41年1月より郵便局を移転した。この局舎は昭和2年(1927)7月まで使用された。 |
加宿問屋場跡 | 正法寺 | 徳田屋脇本陣跡 | 清水銀行由比支店 | |||
明治の郵便局舎の斜向かいに加宿問屋場跡がある。 ここは江戸時代に加宿11ヵ村が共同で問屋場を設置したところである。由比宿では、本宿と加宿が1か月交代で問屋業務を務めていた。 加宿とは、本宿から問屋業務の加勢を命ぜられた村のことである。 |
加宿問屋場跡の脇を右手に入って行くと日蓮宗の光栄山正法寺がある。 正法寺は、源頼朝から由比郷の地頭に任ぜられた由比大五郎光高の曾孫五郎光時を開基とし、同族の縁につながる六老僧日興を仰いで開山した。 境内には堀河院百人首中の一首が刻まれた歌碑がある。 |
おもしろ宿場館の向かいに脇本陣羽根ノ屋跡があり、その先右手に徳田屋脇本陣跡がある。いずれも風化して判読が難しい解説板が建っているのみで、遺構などは残っていない。 | 街道左手に国登録有形文化財の清水銀行由比支店のビルがある。 この建物は、西洋の古典様式を基調とする意匠で、正面に4本のイオニア式の柱頭を飾る柱を据えて水平に三つの帯で分けている。1層目は腰の高い基壇、2層目はそこから柱の上を通る横帯まで、3層目はそれより上の屋根、梁と軒の部分で、簡素ながらも典型的な新古典主義の様式である。 |
西木戸跡 | 入上地蔵堂 | 由比川橋 | 妙栄寺 | |||
清水銀行由比支店を過ぎると左手に西木戸跡がある。 ここは左に枡形になっており、往時は坂道を下って由比川に出ると、仮の橋が架けれていて、それを渡っていた。雨が降って水量が増すと仮橋は取り外されていた。このように由比川は徒歩で渡ったので、徒歩(かち)渡りという。 |
西木戸跡から左に枡形を進んで由比川に出ると入上地蔵堂がある。 この地蔵堂には、由比川の増水で溺死した者を祀った川守地蔵尊が安置されている。 |
由比川に架かる由比川橋を渡って行く。 橋の袂には常夜燈が建ち、親柱は常夜燈を模した造りになっており、欄干には広重画がはめられている。 |
由比川橋を渡って桜えび最中の春埜の手前の路地を右に入ると日蓮宗の経塚山妙栄寺がある。 妙栄寺は、天正12年(1584)蓮乗院日満が境内に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没しているのを知り、土地の有志とはかって石塔と草堂を建立し、これを経塚山妙栄寺と号したのが始まりである。 |
せがい造りの稲葉家 | 桃源寺 | 豊積神社 | 地持院 | |||
街道左手にせがい造りの稲葉家がある。 せがい造りとは、軒先を長く出した屋根を支えるために平軒桁へ腕木を付け足して出桁として棰(たるき)を置いたものである。 軒脇下には 「下り懸魚(くだりげぎょ)」 と言われる両端が風雨による腐食を防ぐための装置があり、雲版型の板に若葉・花鳥などを彫り込んで装飾も兼ねている。 |
和瀬川に架かる共進橋を渡ると右手に臨済宗妙心寺派の桃源寺がある。開祖は今川の被官矢田淡路守で、矢田砦を守り砦の麓・桃源の地に寺を造営したと伝えられ、正保2年(1645)中興の祖といわれる耽現(たんげん)和尚が、現在地に移転した。 境内には端麗な七体の観音菩薩が並んでおり、本堂前には静岡市指定文化財の大イチョウが立っている。いる。 |
清水銀行由比支店の隣の路地に豊積神社社標があり、そこから130mほど先に豊積神社がある。 延暦10年(791)の創祀と伝えられ、祭神は木花佐久夜毘賣命で、社号は祭神の別名・豊吾田津姫命と父神・大山積命から1字ずつ取ったという。この神社では、坂上田村麻呂が東征の帰路に立ち寄ったおり、3日2晩行われた戦勝祝賀の宴が起源という伝統の祭りが、正月3箇日に行われる。 |
豊積神社の隣に臨済宗妙心寺派の北田山地持院がある。 地持院は、かつて地持院山の麓か西山寺にあったと云われ、天正年間(1573~91)開山暗室和尚により、現在地に移転再興された。 隣接する豊積神社の別当寺として神仏事を行ってきたが、明治初年の神仏分離令により、現在の寺形になった。 |
由比太郎左衛門屋敷跡 | ㈱いちうろこ | 天満大目左神社 | 旧道 | |||
街道右手の㈱いちうろこ(かまぼこ店)の手前の駐車場角に由比太郎左衛門屋敷跡標柱が建っている。 由比太郎左衛門家は、代々由比宿の加宿問屋職を務めた家で、由比で生産された塩の販売権を持っていた。由比漁港の近接するこの通りは 「由比桜えび通り」 といわれ、小さな橋の欄干には桜えびが付けられている。 |
由比太郎左衛門屋敷跡の隣に創業文政元年(1818)の㈱いちうろこがある。 かまぼこ・はんぺん・飾りかまぼこなどを無添加で作っているという。 |
渡辺商店の手前路地を右に上がって行くと県道396号線沿いに天満大目左神社がある。 天満大目左神社の創建年代等は不詳であるが、境内には、秋葉山常夜燈・菅公一千年祭之碑が建っている。 |
県道396号線と県道370号線の間に旧道が残っている。 先に進んで突き当たったところで右に進んで県道396号に合流する。 |
地蔵堂 | 旧道口 | 寺尾沢橋 | 宗像神社 | |||
県道396号線に合流して街道を進むと右手擁壁上に地蔵堂がある。 地蔵堂には、三界萬霊塔・六地蔵尊が安置されている。 この直ぐ先の擁壁上にも石祠がある。 |
由比町寺尾歩道橋の所から山沿いに進む旧道口がある。 ここには大きな由比本陣公園の標柱が建っている。 歩道橋の先を曲がると旧街道の面影を残す道が続いている。 |
旧道に入って直ぐ寺尾沢橋があり、その先に大きな由比観光案内板が建っている。 | 由比観光案内板の脇から右側の山手に上って行くと宗像神社がある。 宗像神社は、宗像三女神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)を祭神としており、航海の安全を祈願する神である。 |
讃徳寺 | 名主の小池邸 | あかりの博物館 | 薩捶峠道標 | |||
街道に戻って、中の沢二号橋を渡ると右手段上に日蓮宗の海上山讃徳寺がある。 讃徳寺は寛文9年(1669)慈雲院日覚上人により創建されたと云われ、本尊は一塔両尊四士曼荼羅である。 境内には七面天女像を祀った七面堂、元禄7年(1694)の谷口法悦が建立した南無妙法蓮華経題目碑がある。 |
格子のきれいな家並みを進むと右手に名主の小池邸がある。 小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めた。現在の建物は明治時代の建立であるが、大戸・潜り戸・なまこ壁などに江戸時代の面影を残しており、国の登録有形文化財となっている。 |
名主の小池邸の斜向かいに 「あかりの博物館」 がある。 ここには江戸・明治・大正時代までの灯具や資料などが展示されている。 |
大澤橋を渡って格子戸のある旧家が立ち並ぶ街道を進んで行くと、左手に薩捶峠道標が建っている。 道標には、薩捶峠2.3㎞55分とあり、ここから街道はやや登り坂となっていく。 |
南無妙法蓮華経題目碑 | 八阪神社 | 鞍佐里神社 | 川島家茶屋本陣跡 | |||
坂道を上って行くと、程なく右手に南無妙法蓮華経題目碑が建っている。 碑には、南無妙法蓮華経法界萬霊供養と刻まれている。左手崖下には東海道本線・富士由比バイパス・東名高速道路が並んでいる。 |
街道を進むと右手の護崖壁の上に八阪神社がある。かなり急な階段で、脇にジグザグの坂道もあるが、こちらも急である。 御祭神は、須佐之男命で宗像神社に祀られていた宗像三女神の父神に当たる。 |
八阪神社の先の権現橋を渡ると右手に鞍佐里神社がある。 東征途中の日本武尊が賊の焼き討ちにあった時、鞍の下で神に祈ると その鞍が身代りに焼け落ちたということから、鞍去になり、倉沢という地名になったと云われている。 |
右手段上にある宝積寺参道脇から流れる小川を渡ると左手に川島家茶屋本陣跡がある。 川島家は、江戸時代慶長から天保年間のおよそ2百30年間代々川島勘兵衛を名乗り、間の宿の貫目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、西倉沢村名主も務めた旧家である。 |
脇本陣柏屋跡 | 望嶽亭藤屋 | 西倉沢の一里塚跡 | 薩捶峠登り口 | |||
川島家茶屋本陣跡の先で小川を渡ると左手に脇本陣柏屋跡がある。 江戸時代から柏屋として茶店を営んできた家で、明治15年~16年頃静岡県令大迫貞清が療養のため柏に逗留した際、倉沢の気候風土が郷里の九州に似ているところから、田中枇杷の種子を取り寄せ栽培を勧め、この地に田中枇杷が普及するところとなった。 明治元年・11年には明治天皇所小休所となっている。 |
脇本陣柏屋の先のY字路左に望嶽亭藤屋がある。薩捶峠の東登り口に位置しており、一名を坂口屋と云われ、本来は藤屋と称して茶屋を営み、磯料理を名物としており、多くの文人墨客で賑わった所である。 明治元年(1868)幕臣精鋭隊長山岡鉄舟が官軍に追われた際に、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装し、隠し階段より脱出して当時最新式フランス製十連発のピストルを残して行ったと言われている。 |
望嶽亭の向かいに西倉沢の一里塚跡がある。 ここは江戸日本橋から数えて40里目の一里塚である。 |
西倉沢の一里塚跡から薩捶峠登り口となり、一気に急な坂道となって行く。薩埵峠は、戦国時代、足利尊氏が弟直義と合戦し古戦場として知られ、また東海道随一の難所 「親知らず子知らず]悲話が伝えられている。峠は磐城山・嵎崎(くまざき)ともいい、万葉集に 「磐城山ただただ越えきませ磯崎のこぬみの浜にわれ立ちまたむ」 と詠まれ、江戸時代安藤広重の東海道五十三次のうち、ここ薩埵峠より見た富士山・駿河湾の景観を描いたものは、あまりにも有名である。 |
駿河湾を望む | 薩捶峠道標 | 薩捶峠展望台 | 広重画「由比薩捶嶺」の地 | |||
みかん畑の中の坂道を登って行くと左手は駿河湾が広がっている。 | みかん畑が少なくなった辺りの展望の良いところに薩捶峠道標がある、 延享元年(1744)の小さな道標とひび割れた大きな道標が2基建っている。 |
左手のやや下がったところに薩捶峠展望台がある。 ここには薩捶峠山之神遺跡碑・幸田文の文学碑が建っている。トイレもあるのでここで昼食休憩を取った。近くには無人のみかんとデコポンの販売所があり100円で売っていたので食べてみたが、非常に甘くて美味しかった。 |
薩捶峠展望台から歩道となった街道を下って行くと、安藤広重が由比薩捶嶺を描いた場所がある。 ここは観光客が写真を撮れるように展望台が設置されており、富士山が顔を出すまで待っているようである。街道下の急斜面にも富士山が頭を出すのを待っている人がいた。 |
東海道道標 | 清水市指定眺望地点 | 東海道道標 | 往還坂 | |||
街道を進むと右手に東屋があり、大きな東海道薩捶峠道標(解説付き)と牛房坂碑がある。 ここから幾分上り坂になって行く。 |
牛房坂を上って下りにさしかかったところに薩捶峠碑と東海道道標が建っており、山側に薩捶山の合戦・歴史の解説がある。 ここは清水市指定眺望地点となっている。 |
清水市指定眺望地点の先で一気に下ると墓地の手前に東海道道標がある。 その先で墓地の中を通り、トイレの設置されたところで車道の舗装路に出る。 |
トイレの先は直線の下り坂となり、左手に往還坂碑が建っている。 |
白髭神社 | 秋葉山常夜燈 | 瑞泉寺 | 牛頭観世音菩薩 | |||
往還坂を下ると十字路となり、街道は右に進んで行くが、左に進むと右手の山上に白髭神社がある。 創建年代は不詳であるが、立派な拝殿・本殿があり、ご祭神は猿田毘古神は祭られている。 |
街道に戻ると左手に寛政2年(1819)の秋葉山常夜燈が建っている。 傍らには長山平碑と道標と思われる判読できない石柱が建っている。 |
所々にある道標に従って進んで行くと左手に瑞泉寺寺標があり、ここを左に入って行くと日蓮宗の龍光山瑞泉寺がある。 幽玄院日近が正保2年(1645)に創立し、漢学の道場とされていたが、火災等のため古い記録は残っていない。境内に幕末の頃、薩埵峠から移転されたという題目碑がある。当時東海道の旅の難所であった薩埵峠での殉難霊位の供養のためと旅の安全祈願のために建立されたものである。 |
瑞泉寺を過ぎるとやや広い道となり、左手に牛頭観世音碑を覆う小社がある。 |
川越遺跡 | 興津川橋 | 供養塔 | 薄寒桜 | |||
牛頭観世音碑の斜向かいに川越遺跡がある。ここは東海道興津川 「川越し」 の跡である。 旅人は両岸にあった川会所で 「越し札」 を買い、連台または人足の肩車で川を越した。越し札はその日の水深によって値が違い、連台の場合は札4枚を要した。深さが4尺5寸(1.5m)を超えると 「川止め」 となった。 |
川越遺跡の先で東海道本線のガードをくぐり、興津川に架かる興津川橋を渡って行く。 | 興津橋を渡って右手の階段から土手沿いに進むと供養塔が建っている。 碑面には 「供養塔」 と刻まれている。 |
供養塔の先から東海道本線に沿って道なりに進み、右手の県営興津団地の先で国道1号線に合流する。国道1号線を進むと左手静岡市清水商工会の前に薄寒桜の木がある。 この桜は大正元年(1912)ワシントンポトマック河畔に当時尾崎東京市長が桜の苗木を寄贈する為、この地の農水省果樹試験場にその育成を懇願された際の一種である。この薄寒桜はその子供に当たる。 |
宗像神社 | 身延山道標 | 興津の一里塚跡 | 理源寺 | |||
薄寒桜の向かいに宗像神社の鳥居が建っている。参道を進むと三の鳥居の奥に社殿がある。 宗像神社は、宗像三女神(田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神)を祀る海上交通の神である。この宗像三女神のうち、田心姫神を沖津姫神とも呼び、その名の 「おきつ」 を採って興津という地名になったという。境内には弁財天も祀られ神社の森を 「女体の森」 と称している。 |
興津中町西交差点の右手の 「もちやもちづき」 の脇に身延山道標・七面山常夜燈・承応3年(1654)の南無妙法蓮華経題目碑などの石造物がある。 身延道は、日蓮宗総本山である身延山久遠寺を結ぶ街道で、鎌倉時代には駿河と甲斐を結ぶ重要な街道であった。 |
身延山道標の直ぐ先右手に興津の一里塚跡がある。 ここは江戸日本橋から数えて41里目の一里塚である。 |
興津駅前交差点を過ぎると右手に日蓮宗の祥瑞山理源寺がある。 理源寺は、身延26世知見院日暹による開山で、慶長年間(1596-1614)に草創され、寺の裏を流れる沢端川を身延七面山の春木川になぞらえ、身延の地形に合わせて寺が建立された。 境内には、七面堂、稲荷堂、目の神様 「意眼さん」 の墓がある。 |
興津宿公園 | 東本陣跡 | 西本陣跡 | 茨原神社 | |||
興津交番隣に興津宿公園がある。 公園には、興津宿案内板、興津宿由来解説があり、「江戸から数えて17番目の宿であり、東本陣・西本陣の二軒のほか、脇本陣を置き、旅籠も24軒という賑やかな宿場であった」 と解説されている。ここには東海道道標、第61代全米桜の女王興津親善訪問記念樹の薄寒桜が植えられている。 |
清水銀行興津支店の先の民家前に興津宿東本陣跡がある。 遺構等は無く碑が建っているのみである。 |
山梨自転車商会の手前に興津宿西本陣跡がある。 ここも遺構等は無く碑が建っているのみである。 |
西本陣跡の先の興津不動尊前信号を右に進んで東海道本線を渡ると茨原神社がある。 鳥居の先は立入禁止となっており、新しい社殿が右手の方に建てられている。 茨原神社の奥には、津島神社があり、その奥に不動の滝があり、滝上に波切不動尊と呼ばれる不動院がある。 |
清見寺 | 瑞雲寺 | 高山樗牛假寓之處碑 | 坐漁荘 | |||
街道を進むと右手を走る東海道本線を渡ったところに臨済宗妙心寺派の清見寺がある。 約1300年程前の白鳳年間(7世紀後半)に清見関が設けられた時、仏堂が建立されたのが始まりという。 戦国時代に徳川家康が幼少時、今川氏の人質として駿府に在った頃、当時の清見寺住職太原和尚(第一世)より教育を受けたという。 境内には家康の接木の臥龍梅・五百羅漢などがある。 |
清見寺の隣に臨済宗妙心寺派の巖腰山瑞雲寺がある。 延文元年(1356年)足利尊氏が武運長久と一族安全を祈願して堂宇を建立したのが始まりという。 境内には駿河一国観音霊場第23番札所・性海和尚が清見寺裏山で見つけたと言われる東海道の天下の名水 「性海庵(しょうかいや)の湧水」 がある。 |
清見寺の街道沿いの山門の先に高山樗牛(たかやまちょぎゅう)假寓之處碑が建っている。 碑の側面には、「樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し明治33年秋当処の三清館に假寓して清見寺の鐘音を聞いた。三清館の所在は茲より南方20米附近に在った」 と刻まれている。 高山樗牛は、明治時代の日本の文芸評論家・思想家であり、明治30年代の言論を先導した。 |
街道左手に坐漁荘がある。 坐漁荘は明治から昭和にかけて活躍した政治家、元老・西園寺公望が1920年に興津清見寺町に建てた京風の純和風建築の別荘である。 坐漁荘は昭和46年に愛知県犬山市の明治村に移築され、国の登録文化財として公開されているが、かつて有ったこの地に復元して記念館となっている。 |
地蔵堂 | 念仏供養塔 | 東光寺 | 井上公爵之松 | |||
波多打川に架かる波多打川橋を渡り、左手の路地を進んで横砂踏切を越えると正面に地蔵堂が見え、国道1号線に合流する。 地蔵堂には延命地蔵菩薩坐像が中央に祀られ、脇には弘法大師坐像・地蔵菩薩立像・如意輪観音像・十一面観音菩薩・地蔵菩薩坐像などが祀られている。 |
街道を進むと右手の路地角に自然石の念仏供養塔が建っている。 石碑には 「念佛十二億萬遍供養」 と刻まれている。 |
念仏供養塔の直ぐ先右手に臨済宗妙心寺派の医王山東光寺がある。 東光寺は天文年間(1532-54)温仲和尚によって現在地より北方の地に創建され、その後、幾多の変遷を経て、清見寺蓉嶺維禎禅師の法を継ぐ9代洪堂義範禅師により開山され現在に至っている。山門は勅使が興津川の川止めにより泊まることになり、急遽造ったものである。 |
庵原川に架かる庵原川橋を渡って進むとレストラン榊屋の前に井上公爵之松がある。 この松は、明治政府で不平等条約の改正などに尽力した井上馨が、明治29年(1896)に清水区横砂の地に建てた別邸 「長者荘」 にあったものを移植したものである。 |
名残松 | 延命地蔵尊 | 馬頭観音 | 津島神社 | |||
日の丸タクシー向かいの街道左手に一本の名残松が立っている。 (写真は振り返って撮影) |
名残松の先右手に延命地蔵尊が祀られた小社がある。 | 街道を進んで袖師交差点を越えると右手に馬頭観音が祀られた小社がある。 | 街道右手の袖師生涯学習会館の前の東海道道標を見て更に進むと、望月板金塗装の隣に津島神社がある。 津島神社の左奥には、簡易老人憩の家の表札が掛かる松原観音堂がある。 |
細井の松原跡 | 本要寺 | 荒神社 | 江浄寺 | |||
辻町交差点で国道1号線と分れて右手の旧道へ進んで行く。 このY字路中央に細井の松原跡があり、無縁さんの碑・東海道道標細野松原・細井乃松碑がある。 元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると、松の本数206本と伝えられている。 |
細井の松原跡から2つ目の信号交叉点を右に入ると日蓮宗の示迹山本要寺がある。 寛永元年(1624)妙蓮寺8世蓮行院日等が一宇を建てて隠棲したのが始まりである。 境内には地蔵菩薩立像・子育地蔵菩薩などを安置した覆屋、南無妙法蓮華経題目碑がある。本要寺へ入る信号交差点は江尻宿の東木戸跡に当たる。 |
江尻東交差点の左に清水駅を見て進んで行くと2つ目の信号交差点左に荒神社がある。 荒神社は江浄寺28代住職金誉上人が祀ったのが始まりと云われている。 荒神は三宝荒神と言い仏法僧の三宝を守る神であり、また火を防ぎ、かまどを守る神でもあり、農耕神としても信仰されており、祭神は奥津彦命、奥津姫命である。 |
荒神社を過ぎると右手に浄土宗の市中山江浄寺がある。 江浄寺は永正元年(1504)鎌倉光明寺第9世観誉祐崇上人が京都に上る途中、勝沢の地に勝沢山江浄寺として創建したのが始まりである。 境内には、徳川家康の嫡子(長男)徳川信康の墓、九州平戸松浦藩藩主松浦肥前守隆信の弟松浦源太郎成清(しげきよ)にゆかりの恋塚がある。 |
浄春寺 | 妙泉寺 | 法雲寺 | 水神社 | |||
江浄寺の隣に日蓮宗の海光山浄春寺がある。浄春寺は、隣接する妙泉寺11世常住院日妙が正保元(1644)に開いたと伝えられる。 境内には弁財天堂、歴代住職の墓に並んで享保4年(1719)・文政13年(1830)の南無妙法蓮華経題目碑が建っている。 |
浄春寺に隣接して日蓮宗の本応山妙泉寺がある。 妙泉寺は、延徳3年(1491)甲州武田氏の家臣、穴山伊豆入道梅雪の弟・梅庵が入江に庵を結び、日建と号して開創したと云われる。 |
浄春寺の西側に臨済宗妙心寺派の吸江山浄雲寺がある。 法雲寺は、鎌倉建長寺の僧・岐雲和尚による開山と云われ、寺伝によると天正年間(1573-92)に辻の松原に創建され、その後、寛永年間(1624-44)に現在地に移転したという。境内には三界萬霊と刻まれた石塔の上に延命地蔵尊が鎮座し、脇に如意輪観音・六地蔵尊の内の4体が安置されている。 |
街道は水江尻郵便局の先の十字路を右折して行くが、そのまま直進すると巴川の手前に水神社がある。 この水神社は、巴川の氾濫を鎮めるために嘉永2年(1849)に再建されたと云わっている。 |
清水駅 | ||||||
時刻は16時30分を回ったところであり、本日は水神社までとしてJR清水駅に出て終了である。 |