当宿東町(現諏訪町)木屋渡邊家は、江戸時代末期の当山の有力な檀越で、また文化から天保年間まで利左衛門周玞(かねのり)と金璙(かねよし)が二代にわたり宿の問屋職(宿駅の長)を勤めました。
 利左衛門父子は日蓮大聖人と法華経への帰依極めて篤く、この法界塔(無縁精霊の供養塔)も、利左衛門周が法華経一部、6万9,384文字を一石に一字づつ書写し、それを礎石として利左衛門金璙
(かねよし)が起立したものです。
 信州高遠から招いた石工の手になるもので、当時の石工の技術水準の高さをよく示しています。当山25世日迎上人代の文政11年(1828)9月16日に竣工。基壇には助力の有志11名の名も刻まれています。なお、笠の一部が欠損していますが、これは安政の地震により落下したためと伝えられています。

 当山は日蓮聖人直弟日興上人の弟子中老僧日目上人の開創と云われ、北条重時の嫡男石川式部入道勝重の発願により、元弘元年(1331)に建立された。初めは仏護山大法東漸寺といわれ、富士宮市安居山東漸寺と称せられた。開創の頃はここより4~5百メートル西方の本町いかりま地先にあったが、徳川三代将軍家光上洛の砌、柵御殿造営のために、4630坪の寺地を拝領して寛永元年(1624)現在地に移った。その後、災厄に遇い、特に安政5年(1858)6月の豪雨により本堂庫裡その他ことごとく埋没倒壊した。今ある建物は全てその後のものである。なお、御開山日目上人は当山創立の後、元弘3年(1333)、後醍醐天皇の御召しにより上京の途次関ケ原近くの垂井の宿外れにて雪中病没された。

位牌堂に掛かる常寂光の扁額

位牌堂

手水舎

東漸寺本堂

本堂に掛かる佛護山の扁額

渡邊利左エ門起立の法界塔説明

東漸寺沿革

巨大サボテン

推定樹齢400年のイヌマキ

渡邊利左衛門起立の法界塔

明治14年(1881)の南無妙法蓮華経題目碑

鐘楼