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 天保12年(1841) に江戸幕府が編集した東海道宿村大概帳によると、由比宿の町並みは東西5町半(約600m)とあります。
 その宿場のい西の木戸(通行人の出入口)が、この先の枡形(曲がり角)の所あたりだったと思われます。
 旧東海道は、その枡形を左折して坂道を下って由比川の河原へ出ると、仮の板橋が架けられていて、それを渡りました。雨が降って水量が増すと、この借板橋は取り外されました。このように由比川は徒歩で渡りましたので、歩行(かち)渡りと言っています。
 歌川広重の版画の行書版東海道の 「由井」 には、この情景がよく活写されています。また狂歌入り東海道には、結城亭雛機(ゆうきていすうき)という人が、
   ふみ込ば 草臥(くたびれ)足も 直るかや 三里たけなる 由井川の水
という狂歌を残しています。

道標

 慶長6年(1601)、江戸幕府は東海道に宿駅伝馬制を設け、由比宿はこの年に宿場として指定されました。東海道53次が確定したのは三代将軍家光の頃で、由比宿は江戸から16番目の宿場でした。宿内には大名や高貴な人が宿泊する本陣、彼らの道中で馬や人足を調達する問屋場、一般旅客の宿泊・休憩する旅籠・茶屋などがありました。由比の本陣職、問屋職を勤めた岩辺家は、鎌倉時代より続く由比氏の系統で、江戸時代は代々 「岩辺郷右衛門」 を名乗りました。
 天保14年(1843)の 「東海道宿村大概帳」 によると、由比宿の町並みは東西5町半(約600m)、宿高は340石、人口は707人、戸数は160軒あり、このうち本陣1、脇本陣1、旅籠32となっています。このように由比宿は小規模であったため、義務であった百人・百匹の常備の人馬を置くことができず、近隣の村を加宿とし応援をしてもらいました。
 宿場の西端にある由比川は仮板橋で、大水が出るときは取り外すので川留め(通行止め)となりました。また、宿場の東西の入口には万一の攻撃に備えて街道をカギの手に曲げた枡形があり、今でもその面影を残しています。
 由比宿の中心であった由比本陣は、石垣と木塀で囲まれた遮蔽形の本陣で、本陣館、土蔵、離れ座敷がありました。惜しくもその多くは失われてしまいましたが、1300坪(約4300㎡)の広大な敷地、馬の水飲み場の石垣などが当時の姿を留めています。

由比宿案内板

由比宿西木戸説明