東海道道標 薩捶峠

薩捶峠モニュメント

薩埵山は、京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。

 1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。「太平記」 に見える陣場山、桜野などの地名は、これより北方の峰続きに存在する。

 降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏眞はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北條氏と武田軍が二ヶ月余も対陣したが決定的な戦果ははなくて武田方が軍を引いた。

     興津地区まちづくり推進委員会

薩捶峠は、古くから美しい眺めの場所として受け継がれてきた。薩捶峠からの富士山への眺望は、前面の東名高速道路とバイパスにより近代的な構成となっているが、駿河湾と富士山は不変の景観財産として存在し、時代を超えて共有できる眺望景観として、将来にわたり大切に守っていくべき重要な場所であることから、眺望地点として指定する。

鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引き揚げられた薩埵地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩埵山と呼ぶ、上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。

 (岩城山ただ超え来ませ磯崎の 不来海の浜にわれ立ち待たむ)

 ここに道が開かれたのは1665(明暦元)年朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける 「親しらず子しらず」 の難所であった。

 この道は大名も通ったので、道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、そこまでが江戸時代の道路である。

 今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。

     興津地区まちづくり推進委員会

薩捶峠の歴史

薩捶山の合戦

薩捶峠碑

清水市指定眺望地点