由比宿場西の入口
京から江戸に下る旅人が薩埵峠を越えるとここが東海道由比宿の入口である。「ふるさと由比」 の表紙は江戸時代のここ 「由比河原」
の風景で、中央に 「驛西茶店」 と記されている。
昔は由比川は仮板橋で渡っていたところに、明治8年望月幸平翁によって初めて木橋が架けられ 「玉鉾橋」 と命名、無賃で渡したことで有名であった。昭和8年コンクリートの現在の由比川橋が架けられ、玉鉾橋は取り壊され、両岸の橋脚だけが往時の名残を留めている。
入上の地名由来
ここの地名を昔は 「ゆりあげ」 と言った。天正5年(1577)本陣職由比光広が、夢のお告げで由比浦浜に出てみると、海上はるか金色まばゆい仏像が波に揺り上げられてきた。由比氏はこれを取り上げ節井に草堂を建てて祀った。この観音像が紀州粉川寺からはるばる海上を波に揺り上げられてきたことに由来し、この地を
「ゆりあげ」 と称し、いつか入上と呼ぶようになった。観音像は現在、大法寺の本尊として祀られている。
入上地蔵堂
江戸時代広重の画いた由比川の風景に 「ふみこめばくたびれも直るかや 三里たけなる由比川の水」 とある。この由比川はひとたび大雨になると 「きちがい川」
とも言われ、急に水かさが増し、溺れて水死する者もあってこの水難者を祀った川守地蔵である。
8月の祭典には、子供相撲が奉納される。
矢前八幡社
天喜4年(1056)陸奥の豪族、安倍頼時が乱を起し、これを討伐するため源頼義は駿河の武将大宅光住以下兵5万騎を従え、東征に向かい、立花村から大平山の立田峠を越え八幡平に立って戦捷を祈願し、東天に向かって矢をいつがえ
「この矢が落ちたところに八幡社を勧請し奉るべし」 と放った矢が延命寺の脇に落ち、ここに矢前八幡社を祀ったと言われる。明治末期、由比川の水害で社をここに移し、ご神体は飯田八幡宮に併祭したといわれる。
由比宿西の入口・入上の地名の由来・入上地蔵堂などの解説
川守地蔵尊
川守地蔵尊