硯水の五輪の墓は、調べによれば鎌倉期前の形状を保っている。硯水菩提所は、蒲原氏4代範秀が応保2年(1162)造る。義経奥州行きの途中に風雨で波荒く吹上浜に上陸し蒲原氏吹上館に宿る。義経再び旅立ちにあたり、蒲原神社へ祈願文奉納のため硯水の湧水の浄水を使う。其の後、姫へ便りを書く。其の時より義経硯水と称す。
姫、義経の便りを見て、侍女十六夜と共に旅立つ。蒲原にたどり着いたが、疲れと失望に病に倒れる。館の主に救われ、館地内に一堂を与えられ住居す。幸せの暮しの中で重き病で没す。治承3年(1179)。
10月26日、姫は硯水菩提所に葬られる。其の後、姫の住居の一堂を菩提所に移し寺とし、常楽寺となる。町の地籍に常楽寺の字名あり。
中学の所に明治初期に造った姫の供養碑あり。
藤原南家出の蒲原氏9代、10代は一族入江氏と共に、南朝忠臣として歴史に名を残す。
地内に大供養碑あり。碑面は長年の風雨に文字消ゆ。
碑の文字は、承応三甲年八月中旬五日
木内菩提所硯水建立
木内二十三代源右衛門親房
木内現在41代
文化14年(1817)の地蔵菩薩
南無妙法蓮華経題目碑
蒲原木之内家菩提所
義経硯水と浄瑠璃姫碑
鎌倉時代以前の五輪塔
源義経硯水碑
蒲原木之内家硯水菩提所来歴碑
仁安2年(1167)4代蒲原五郎範秀吹上館の乾の方に墓所を造り、初代清實以後清親清範浄瑠璃姫照姫蒲原氏の一族の五輪の墓が建てられた。承安4年(1174)源義経東下の途次蒲原木之内神社に稲荷大神を勧請、神文棟札を記す為当所の湧水を汲んだので、以来
「源義経硯水」 と呼んだ。承応3年(1654)23代親房が供養塔を建立、6代範房400年常光院殿範房義尽大居士先祖代々源義経浄瑠璃姫家臣下僕供養の法要を慶徳寺日延和尚を招いて執行した。碑面左側には蒲原木内菩提所硯水之建木内源右衛門親房と刻まれていた。
「文化14年(1817)再建」 の地蔵尊は 「いぼ神様」 と尊ばれ霊験を願って参拝者が絶えなかったが、旅人に持ち去られ36代勝則が再建した。昭和8年(1933)国道工事の為墓地は北に移り面積は縮小して現在の形となった。40代亀吉の施行である。