徳川家康公が、まだ今川氏の人質として府中(静岡)にいた時、今川氏の一族の娘を娶りましたが、これが、後に築山御前と言われた方で、この方との間に一男を設け、長じて後に岡崎三郎信康と称しました。
 甲斐の武田信玄は、三遠(三河・遠州)の地に、徳川家康とよく争いました。そのため家康は、隣国の雄、織田信長と結び、火急の場合には救護を得ようとして政略結婚を図り、信康を信長の娘と縁組させました。ところが信康は、豪放ですこぶる剛勇な人でしたので、神経の鋭い猜疑心の深い信長とは、和合しなかったようでした。たまたま母の築山殿と共に武田方と内通していると噂されたので、信長の怒りを買い、「不埒なのは、三郎信康なり」 と、信長はしきりに、父家康に、我が子信康を討つようにと強硬に申し入れたのでした。家康は、信康の人となりを信じていましたが、止むを得ず、当時、信康のいた遠州二俣城に討人を向けて、心ならずも犠牲にしてしまいました。それは、天正7年9月15日のことでした。
 家康に仕えていた榊原七郎右衛門清政は、信康の亡きあと、上州舘林に蟄居していましたが、慶長11年家康に召されて、久能城の主を命ぜられましたが、その折、信康の遺髪を譲り受けまして、江浄寺に葬りました。
 家康は、府中に隠居後も、度々人を遣わして過ぎし日の非道を詫びていました。更には家康が没し、駿府城が幕府の留守番城となった後も、徳川家では代参をたててその霊を弔うことを忘れませんでした。
 そして、三代将軍家光の代に至って、江浄寺の紋章に葵の御紋の使用を許可して、此の地方の寺院の頭とさせました。当時は、江浄寺に駿府から代参人が、上土まで輿で来て、舟に乗り巴川を下り、仲町裏(今の清水銀座)にて下船し、江浄寺に参入したとのことです。
 こうして江戸時代は、江浄寺の前を通る参勤交代の西国の諸侯は、すべて当地を過ぎる時(今の伝馬町通りが東海道であった)必ず、大名行列を一旦止めて、当山に参詣することを例としていたと言われます。また当時において、法会を営むときは、駿府城より警護の士を派遣されたということでした。御宝塔は、山門を入ってすぐ左手に、また御位牌は本堂奥の位牌堂の中心に安置してございますので、心あらば、お線香でも手向けて頂ければ、徳川家のために、若くして犠牲となって散っていった信康の御霊も、さぞかし喜ばれることでありましょう。

 

六地蔵尊

三つ葉葵紋の付いた旧本堂の鬼瓦

本堂屋根の三つ葉葵紋

上野公園の西郷隆盛像を手掛けた岡崎雪声の作で、別名子安観音と呼ばれ、井上馨別邸 「長者荘」 にあったものである。

永代供養堂

江浄寺と岡崎三郎信康卿

恋塚

 今を去る400年の昔、徳川幕府初期の寛永元年(1624)5月24日 九州平戸松浦藩藩主、松浦肥前守隆信の弟松浦源太郎成清(しげきよ)は、この江浄寺の一室で切腹し悲運の最後を遂げました。
 成清と婚約を交わした春姫は、参勤交代の為江戸にいた成清を平戸で待っていました。ところが、兄隆信が春姫を側室にすると聞いた成清は禁を犯して江戸を出奔し、江尻宿でようやく兄の行列に追いつきました。しかし、無断で江戸を抜け出した公儀への罪は重くけじめを付けなければ松浦家600万石は取り潰されます。当時、江戸には有力諸大名の謀反の噂が広がり、改易取り潰しが相次いでいました。家老達の藩を守ることを第一とする無情な決定により成清は25歳の若さで切腹をさせられることになりました。
 成清は名門松浦家の安泰のために自ら命を捨てましたが、死後は 「我が墓はこの寺に建てよ、それに願をかける者があれば、その思いを遂げさせてやろう」 と遺言しました。
 果てた後は、この世で結ばれぬ人々のために浄土で縁結びの霊魂となることを誓ったのでした。以来、成清公のお墓は縁結びの恋塚と呼ばれれきましたが、長年月の間に所在が不明となってしまいました。時は流れてこの度、平成17年、有志の方々によって縁結びの恋塚が復元建立され、悲恋の物語が史実として皆様にご紹介されることになりました。

如意輪観音

鐘楼

本堂のガラス戸にある三ツ葉葵の御紋

江浄寺本堂

慈母観音

恋塚

岡崎三郎信康候御宝塔(五輪塔)