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東海道   (原(沼津)~富士川)


平成28年3月21日(月) ☁|☂  沼津市原~富士川  19.2㎞
三島駅6時33分の電車に乗り込み電車の遅れもあったが、7時01分に原駅に到着し、ほぼ東海道本線に沿って街道を進んで行く。今日は原宿から立場の柏原を通り、吉原宿を抜けて富士川を渡る所までの行程である。

原駅 秋葉神社 浅間神社 千本松原
原駅に降りると朝陽が当たり期待を持たせるが、西の空は黒い雲が垂れこめており、今にも雨が降りそうな模様である。 街道に出て高嶋酒造を過ぎると、街道に並行する一本南側の筋に秋葉神社がある。
鳥居の脇に由来碑があり、光っていて判読できないが、戸隠神社の下社宝光社云々と刻まれている。社殿には秋葉山大権現の他、浅間大明神・稲荷大明神が祀られている。
街道に戻って200mほど進み、植松商店の先の左筋を南に入ると、林の中に浅間神社がある。
境内には素戔嗚尊を祀る天王社、稲荷神社の境内社がある。
街道を進んで新田大橋を渡り、一本目を南に進んで東海道本線を越えて、千本街道に出ると海岸沿いに千本松原が広がっている。千本松原は、狩野川河口から田子の浦にかけて広がる松林で、白砂青松100選にも選ばれた景勝地である。戦国時代に武田氏と後北条氏の戦いで切り払われたが、増誉上人が5年の歳月をかけて植え直したと伝えられてる。

大山祇神社 原一本松の一里塚跡 要石神社 浅間神社
千本松原の中に大山祇神社がある。
鳥居の奥に小さな社殿があり、中には石祠が安置されている。社殿の裏には庚申塔3基、南無観世音碑を納めた覆屋がある。
街道に戻るとデーリーマートタカダの向かいに一里塚跡碑が建っている。
ここは原一本松の一里塚跡で、江戸日本橋から数えて32里目の一里塚跡である。
先に進んで小池薬局の脇の路地を南に入り、東海道本線の一本松踏切を渡り、千本街道を進むと千本松原の中に要石神社がある。
この地の開祖大橋家の二代目五郎左衛門が寛永年間(1624-53)に創建したと言われている。石祠は天保14年(1843)に再建されたもので、周囲には南無阿弥陀仏碑・馬頭観音碑などがある。
街道に戻って進むと右手に三社宮と刻まれた社標の浅間神社がある。
境内には、櫛摩知命・大己貴命・少名彦名命を祀った三扉の神・素戔嗚尊を祀った天王社の境内社がある。

大通寺 浅間愛鷹神社 道祖神 鈴木和太郎之像
早朝のためかほとんど車の通らない街道を進むと、左手に曹洞宗の海岸山大通寺がある。大通寺は、江戸時代初期に東海道が整備され、開拓民が集落を形成する頃、紹外舜隆和尚により開山された。
境内には、駿河銀行初代頭取岡野喜太郎碑・五百羅漢像・延命地蔵堂などがある。
大通寺から程なく、街道右手に浅間愛鷹神社がある。
元和元年(1615)に鈴木助兵衛父子により一本松の開拓が始まってから、130年後の延享2年(1745)に創建された。
御祭神は木花咲耶姫命で、境内社に山神社と天王社とがある。
浅間愛鷹神社の先の桃里中町バス停のところに前面も裏面もえぐられた道祖神が建っている。 道祖神から程なく右手に鈴木和太郎之像がある。碑文によると、明治27年(1894)に原町桃里に生まれ、当地に於いて野菜果樹を栽培し、特に茄子は全国品評会で最優秀となり、白桃、西瓜も絶品で日本経済新聞を愛読し、株式の運用を行い鈴和観光設立の基礎をなした人物とある。

桜地蔵尊 植田三十郎墓 八幡宮 六王子神社
更に街道を進んで行くと左手に桜地蔵尊の道標が建っている。
道標に従って路地を進み、東海道本線の桃里西踏切を渡って線路沿いに進むと桜地蔵尊がある。遠州より鈴木助兵衛(二代)が元和元年(1615)この地に移住し開拓した。村名は開拓者の名を取ったが、後に助兵衛という語呂を嫌い、明治41年に当時桃の生産が盛んだった為、桃里と改めた。
街道に戻って進み、東海道本線の植田踏切を横断すると、左手に植田三十郎の墓がある。
遠州浪人の植田三十郎親忠が江戸初期、干拓を図るも泥の浮動の為失敗し、その後今井村の六郎左衛門の手により再び開発が進められた。村名は最初の開拓者の名を取って植田新田と名付けられ、また三十郎新田とも呼ばれた。ここには植田三十郎の墓の他、廃寺となった神護寺住職の墓などがある。
街道を進むと左手に植田新田の鎮守である八幡宮がある。
参道奥の手水舎・八幡宮社殿は全て真新しく、最近再建されたようである。
東柏原から中柏原に入ると、東海道本線の東田子の浦駅前に六王子神社がある。
400年程前、この地に有った三股という深い淵に生贄(いけにえ)となる 「おあじ」 という少女を捧げ、それを悲しんだ巫女六人が悲しみのあまり浮島池へ身を投げてしまい、村人が一か所に弔ったのが六王子神社だと云われている。
おあじは、鈴川の阿字神社に祀られている。

大六天神社 柏原本陣跡 立圓寺 道祖神
六王子神社の直ぐ先右手に大六天神社がある。
境内には秋葉山常夜燈、道祖神が安置されている。
大六天神社を過ぎると、左手に間宿柏原本陣跡がある。
遺構などは無く、標柱が建っているのみである。
続いて街道右手に日蓮宗の正法山立圓寺がある。
山門は仁王門で、境内には望郷碑・ゲラテック号遭難の碑と船の錨がある
望郷碑は文化5年(1808)尾張藩の典医柴田景浩が江戸への旅の折に立圓寺に滞在し、ここから見た富士に感銘し碑を建てたものである。
立圓寺の隣の柏原二丁目交差点の角に男女の道祖神が安置されている。

常夜燈 増田平四郎像 沼田新田の一里塚跡 春耕道標第一号
柏原二丁目交差点の直ぐ先の民家の塀の間に、大正3年(1914)の常夜燈が建っている。 先に進んで昭和放水路に架かる広沼橋の袂に有る交通地蔵尊を見て橋を渡ると、左手に増田平四郎像がある。
増田平四郎は、天保7年(1836)の大飢饉や水害から村民を救済するため、浮島沼の大干拓を計画し、現在の昭和放水路と同じ場所に大排水路を完成させた。人々は 「スイ�ホシ」 と呼んだ。ここには増田平四郎像の他、開墾増田平四郎翁碑・為女鹿塚新田碑がある。
増田平四郎像のある広場の直ぐ先の街道沿いに沼田新田の一里塚跡がある。
塚は無く 「旧東海道一里塚」 と刻まれた石碑があるのみであり、斜向かいには富士市花の会が管理する柏原花壇がある
ここは江戸日本橋から数えて33里目の一里塚である。
一里塚跡から程なく、右手に明治42年(1909)の指差し道標がある。
道標には 「須津村役場へ一里 𠮷永村役場へ三十一町」 と刻まれている。この道標は明治時代末期に仁藤春耕というの農民が私財を投げうって、ここから足柄に抜ける道に たくさんの道標を設置したものの一つである。

淡島神社 愛鷹神社 庚申堂 高橋勇吉顕彰碑
田中町公会堂の隣に赤い鳥居の淡島神社があり、鳥居の前に道祖神が安置されている。
淡島神社の奥には米之宮神社がある。

米之宮神社は田中新田の鎮守であり、田中新田という地名は、延宝6年(1678)武蔵国鳴子の田中権左衛門という武士が、この地に移住して新田を開墾したことにより、この名が付いたと言われている。
淡島神社から240~50m先の横断歩道橋のところに愛鷹神社がある。
愛鷹神社の創建年代等は不詳であるが、境内には秋葉山常夜燈・道祖神などがある。
檜交差点を道標に従って左に進むと右手に庚申堂がある。
庚申堂の横には秋葉山常夜燈の竿石、如意輪観音、大野新田村と刻まれた馬頭観音、庚申塔など石造物が安置されている。
庚申堂から程なく民家の間に高橋勇吉の顕彰碑がある。
高橋勇吉は天保7年(1836)から14年の歳月と私財を費やして排水用の掘割を完成させ、三新田(町・檜・田中)の80ヘクタールに及ぶ水田を幾多の水害から守った。
高橋勇吉は天文の知識や土木技術に優れていたことから、人々はこの掘割を天文掘と呼んだ。

愛鷹神社 稲荷神社 秋葉山常夜燈 毘沙門天
街道左手の大野新田集落の奥にある高台に愛鷹神社がある。
社殿までの途中の坂道には、秋葉山常夜燈・地蔵菩薩坐像などがあり、愛鷹社の神額が架かる鳥居の奥の社殿・境内社は鉄筋コンクリート造りで建て替えられている。
街道に戻って進むと、左手高台に集落を見下ろすように稲荷神社がある。
境内には小御堂に入った天保10年(1839)の子安大明神碑がある。
稲荷神社の直ぐ先右手に秋葉山常夜燈が建っている。 秋葉山常夜燈から250m程先の左手段上に、日蓮宗の香久山妙法寺、通称毘沙門天がある。
妙法寺は寛永4年(1627)身延山25世日深が田島村に建立し、「田島山妙法寺」 と号したのが始まりと云われる。
境内には毘沙門天ゆかりの虎像、身祓い毘沙門天像、中国風の龍神洞(香炉)、毘沙門堂などが並んでいる。

愛鷹神社 木之元神社 馬頭観音 名残松
毘沙門天の直ぐ先、左手の路地奥に石段があり、上がって行くと右手に愛鷹神社がある。
社殿は綺麗に整備されており、境内には稲荷神社(宇迦之御魂神)、子安神社(子安大明神)の境内社がある。
街道を進むと富士信用金庫の先でY字路となり旧道は左であるが、東海道本線で途切れているため右から迂回する。
旧道跡の左に進むと直ぐ左手に木之元神社がある。境内には愛鷹神社と同様に稲荷神社(宇迦之御魂神)、子安神社(子安大明神)の境内社・富士市天然記念物のムクロジの大木がある。
Y字路に戻って東海道本線の鈴川踏切を越えて進むと、河合橋の手前に天明3年(1783)の馬頭観音が建っている。 河合橋を渡って行くと大昭和紙工産業㈱の前に名残松があり、根元に道標が建っている。

左富士神社 依田橋の一里塚跡 庚申供養塔 名勝左富士の名残松
富士由比バイパス・東海道新幹線のガード下のY字路を右に進んで行くと、左手に左富士神社がある。
創建年代は不詳であるが、依田橋の氏神として祀られてきた神社である。名勝左富士に因んで左富士神社と称しているが、明治41年までは悪王子神社と称していた。境内には道祖神・子安神社(子安大明神)・延宝8年(1680)の高潮に関する漢文の記念碑がある。
左富士神社の境内に依田橋の一里塚跡が復元されている。
元吉原宿時代には、田嶋村付近に一里山を築き、その後、寛永16年(1639)に中吉原宿に移転、延宝8年(1680)水害により新吉原宿に移転している。
現在、民有地になっているため、左富士神社境内にモニュメントを造ったという。ここは江戸日本橋から数えて34里目の一里塚である。
左富士神社の直ぐ先の民家の隣に庚申供養塔などの石造物が安置されている。 庚申供養塔の先の信号十字路左角に名勝左富士の名残松がある。
東海道を東から西へ行くとき、富士山は右手に見えるが、この辺りは松並木の間から左手に見えたことから、左富士と呼ばれた。
現在は工場・住宅が立ち並び見えないが、老松が往時の姿を偲ばせている。

馬頭観音 平家越え橋 山神社 八坂神社
街道を進むと、左手に南無妙法蓮華経題目碑2基と小社が建っている。
小社には馬頭観音が祀られており、石碑には左富士馬頭観世音と刻まれている。
馬頭観音の先でY字路となり、左に平家越え橋がある。
橋の袂には、大正13年(1924)の皇太子殿下御成婚記念に建てられた平家越の碑がある。治承4年(1180)、水鳥の羽音を源氏の夜襲と誤った平家の大軍が総崩れして西走し、一戦も交えず源氏が大勝したところとある。
傍らには、東海道の道標2基(1基は折れている)が建っている。
平家越え橋を渡って先に進み、信号交差点を左に入ると、右手に山神社がある。
境内には水神、享保16年(1731)・天保5年(1834)の常夜燈がある。
山神社を過ぎると、右手の路地奥に八坂神社がある。
八坂神社は嘉永6年(1853)悪王子神社(現在の左富士神社)の氏子であった東町の住民が牛頭天王を勧請し牛頭天王社を創建したのが始まりである。
その後、明治元年の神仏分離政令により名を八坂神社と改め、祭神を建速須佐之男命を祀って現在に至っている。

天神社 明治天皇御小休所碑 唯称寺 鯛屋旅館
岳南鉄道線吉原本町駅前を通って進み、吉原本町通りの商店街に入ると、右手の和田川近くに天神社がある。
創建年代は不詳であるが、往古吉原見附宿に祀られていた古社であり、建久4年(1193)源頼朝、天正18年(1590)豊臣秀吉が参拝されたという。
その後、度重なる天災により天和2年(1682)現在の地に遷座し、この地の鎮守 「天神さん」 として崇敬されている。
吉原本町商店街左手の駐車場前に明治天皇御小休所跡碑が建っている。
ここは東海道吉原高砂会館跡である。
明治天皇御小休所跡碑の先の信号十字路を右に進むと真宗大谷派の泉流山唯称寺がある。
この寺にはカッパの伝説があり、三代目住職がカッパを助けた御礼にもらったカッパの茶壺があるという。
吉原本町商店街に天和2年(1682)より創業している鯛屋旅館がある。 かつては、山岡鉄舟や清水次郎長の定宿であった。
現在は、歴史ある旅館の一部をかつての宿場風に改装し、平成18年3月から吉原宿の象徴として 「吉原本宿」 をオープンし、うどん、そば等を食べることができる 「食事処」 となっている。
清水次郎長の墓は、臨済宗妙心寺派の梅蔭寺にあり、また山岡鉄舟の墓は、かつて久能寺と号し、その後、改名した鉄舟寺にある

東海道道標 保泉寺 南無妙法蓮華経題目碑 妙祥寺
吉原商店街左手の駐車場門に東海道道標が建っている。
道標には、「原宿3里・江戸34里 蒲原宿3里・京都90里」 と表示されており、街道はここを左折して行く。
街道とは外れるが、東海道道標の向かいの路地を北に入ると曹洞宗の開富山保泉寺がある。
保泉寺は、慶長16年(1611)原田永明寺7世太室存道が、東海道吉原宿(元吉原)で創建したのが始まりと云う。
境内には前田緑郎の狂歌碑 「誰も知れ 此世の尻の仕舞には 屁よりももろく きゆる玉の緒」 がある。
街道に戻って東海道道標を左折して街道を進むと、正面に妙祥寺の南無妙法蓮華経題目碑が建っており、碑の前には東海道道標が建っている。 南無妙法蓮華経題目碑の脇を南に入ると、水路を二つ越えたところに日蓮宗の吉原山妙祥寺がある。
境内には、高さ6mほどの日蓮上人像、覆屋に納まった境内社の稲荷神社がある。

立安寺 大運寺 西木戸跡 東海道跡碑
妙祥寺を過ぎると左手に保泉寺の末寺である曹洞宗の芙蓉山立安寺がある。
立安寺は、寛永2年(1625)保泉寺2世吟守が江戸の材木商とともに 「芙蓉山龍安寺」 として開創した。
立安寺の先右手に浄土宗の今井山了善院大運寺がある。
大運寺は、応永20年(1413)開創で了善寺といわれ、その後、寛永年間(1624-43)火災で堂宇を焼失し、程なく鎌倉からきた僧故極が再建、寺号を大運寺に改めたという。
参道入り口に石地蔵があり、墓地前には観世音菩薩・地蔵菩薩などが並んでいる。
小潤井川(こうるいがわ)の手前右手に西木戸跡がある。
東海道道標に 「吉原宿西木戸跡 富士山村山道起点」 と記されいる。
小潤井川に架かる志軒橋を渡って一旦県道139号線に合流し、直ぐ先で青葉通りを横断する。
この青葉通り脇に 「旧東海道跡碑」 が建っており、脇にある由緒碑には、「この付近の道路が現在のように改修される前は、この碑のある場所を西は青島町(青島村)、東は新追町(追分)へ向かって江戸時代から東海道が通っていて往来する旅人で大変賑わっていました。」 と刻まれている。
つまり旧東海道は、志軒橋から直線的に青葉通りを抜けていたということである。

厳島神社 山神社 青島八幡神社 愛宕神社
青葉通りを渡って最初の路地を右に入ると村社厳島神社がある。
社殿は永田町公民館・老人憩いの家を兼ねており、境内には稲荷神社の境内社がある。
厳島神社の直ぐ先、右手に山神社がある。
この山神社社殿も公会堂を兼ねており、片隅に戦没者慰霊碑や山神社の扁額・手水石などが無造作に置かれている。
山神社の先、左手に青島八幡神社があり、通称磔(はりつけ)八幡と称している。
延宝年間、領地の新たな課税基準を定める地方検地の際、 不正な検地によって本来免税・減免されるはずの新田にも重税を課した。 このため庄屋・川口市郎兵衛は、強くこれに抗議し主張は認められが、強訴の罪状により、磔刑に処せられた。八幡神社はこの川口市郎兵衛を祀っており、参道には道標・庚申塔などがある。
高島交差点で県道396号線に合流すると、右手に愛宕神社がある。
狭い境内には道祖神・青面金剛の庚申塔・如意輪観音などの石造物がある。

富安橋 南無妙法蓮華経題目碑 道祖神 山神社
愛宕神社の先で東海道順路道標に従って進むと潤井川に架かる富安橋がある。
富安橋は、明治以前は 「三度橋」 と呼ばれ、定期的に江戸と京阪を往復した大坂の三度飛脚の願いで架けられた橋である。
この川の堤防には、小倉百人一首のプレートが埋め込まれており、渡り詰めには道祖神がある。
富安橋を渡って進むと左手駐車場の角に南無妙法蓮華経題目碑が京方面を向いて建っている。 街道を進むと右手民家のブロック塀の中に道祖神が安置されている。 道祖神を過ぎると右手の路地の突当りに山神社がある。
山神社の隣の堤防脇には、明治40年の堤防決壊地跡碑が建っている。

間宿本市場跡 鶴芝の碑 旧東海道跡地碑 瘡守稲荷神社
街道に戻って先に進むと、富士市総合庁舎隣の富士市フィランセ東館の前に間宿本市場跡碑がある。
ここには広重の吉原宿が描かれており、傍らには道標が建っている。
間宿本市場碑の直ぐ先の民家の前に鶴の絵と詩文の刻まれた鶴芝の碑が建っている。
この辺りは間の宿で 「中の茶屋」・「鶴の茶屋」などと呼ばれた茶屋が並んでおり、ここから見る富士は山腹に鶴が舞うように見えたことから、「鶴芝」 と呼ばれていたという。
鶴芝の碑から先に進むと、街道は片側2車線道路で分断されており、中央分離帯に旧東海道跡地碑が建っている。
ここには旧東海道順路道標があり、右から横断歩道で迂回して行く。
街道を迂回するため右に進んで行くと、ちょっと先に瘡守(かさもり)稲荷神社がある。
拝殿の前に白い石が置かれているが、これは江戸時代より熱病を治癒する霊石と言われ、またの名をイボ神様と呼ばれている
現在は家内安全・病気治癒・進学祈願のため白い石を借りて、お礼参りには二個にして返す習わしがあるという。

法源寺 常諦寺 延命寺 旧道口
横断歩道で迂回していくと右手に浄土宗の米宮山大久院法源寺がある。
創建は不詳であるが、無住時代を経て天正年間(1573-91)この地に移住した武田勝頼家臣の高田六兵衛が再建したと言われている。
境内には歌人佐々木信綱が友人・熊沢月台を偲んで詠んだ歌碑がある。
法源寺の裏手に日蓮宗の蓮寿山常諦寺がある。
常諦寺は、弘安4年(1281)日蓮の大檀那・高橋六郎入道が日蓮の還暦祝いに自邸を寺に改めたのが始まりと伝わっている。
境内には安永5年(1776)の常夜燈一対が建っている。
街道を進んで県道396号に合流した信号交差点の右手に曹洞宗の米宮山延命寺がある。
延命寺は、寛永19年(1642)本寺である成安寺の第6世法山が米之宮浅間神社の延命地蔵菩薩を勧請したのが始まりと伝わっている。
境内には線刻の不動明王像がある。
街道に戻ると、県道396号線の信号交差点から左(南)に入る一方通行路(旧道口)に東海道道標が建っている。

本市場の一里塚跡 道祖神 栄立寺 金正寺
街道を進むとメットライフ生命の向かいに本市場の一里塚跡がある。
ここには平成13年に建てられた旧東海道一塚跡と刻まれた石碑があるのみで遺構は無い。
ここは江戸日本橋から数えて35里目の一里塚跡である。
先に進んで信号交差点を越えると、左手のふじいち平垣店(中華店)の角に道祖神が建っている。 道祖神の先の信号交差点右角に日蓮宗の妙雲山栄立寺がある。
小さな山門をくぐると境内は狭く、本堂は塀を隔てて富士大通りと接し、石塔石仏・灯籠・鐘楼がなどが無く、寺という感じがしない。
栄立寺と富士大通りを隔てた向かい側に曹洞宗の不二山金正寺がある。
金正寺は、戦国期に僧玉隠が真言宗金正院として開き、宝暦13年(1763)成安寺15世本戒が曹洞宗金正寺として再興したという。
境内には厄除け観音・十二支守り本尊を配した築山・庚申塔などがある。

旧松永邸跡 札の辻跡 稲荷神社 秋葉山常夜燈
金正寺の直ぐ先にあるフジホワイトホテルが、この地の大地主松永邸跡であり、壁面に旧松永邸跡の解説が有る
江戸時代の富士市には旗本領が多く、松永家には旗本領の陣屋がおかれ、領主に代わって年貢のとりまとめを行う業務を担っていた。明治時代になって陣屋を解職されてからは、富士駅や製紙会社の誘致、小学校の建設など、近代化を進める事業に携わったという。
フジホワイトホテルの先の小川を越えた左角に札の辻跡がある。
ここには大正5年(1916)に建てられた札の辻跡碑があり、台座に 「札の辻のいわれ」 と題された高札場跡とは関係の無い実相寺の解説が刻まれている。碑の裏には猿田彦大神碑がある。
札の辻跡の先で小川を越えると、左手に稲荷神社がある。
境内には、風化の進んだ男女双体道祖神がある。
街道右手の消防倉庫と思われる建物の前に、寛政4年(1792)の秋葉山常夜燈が建っている。

天白神社 道標 護所神社 山神社
水路に沿った街道を進み、東海道道標の建つところで県道396号線に合流すると、右手に天白神社がある。
境内にある由緒碑には、天正13年(1585)本社次兵衛造営とある。
境内には、観音像・男女双体道祖神・庚申塔などの石造物がある。
県道396号線から右手の旧道に入るところに、辛うじて文字が見える道標と秋葉山常夜燈が建っている。 道標の先を進み右手から流れる水路沿いに進んで行くと左堤上に護所神社がある。
ここは繰り返す富士川の洪水を鎮めるため、東海道を通る千人目の旅人を生きながらに埋め、護堤の人柱にしたというところである。
境内には人柱供養塔・雁堤人柱之碑などが建っている。
街道に戻って進むと緩やかに左カーブするところで、右手の三光製紙工業の奥の雁堤前に山神社がある。
社殿脇には道祖神がある。

明治天皇御小休所跡 水神社 富士川橋 光栄寺
県道396号線に合流して進むと左手に明治天皇御小休所跡碑が建っている。
傍らに解説碑があり、明治11年(1878)11月6日東海北陸巡幸の際、ここで休憩されたという。
富士川の手前右手に水神社がある。
水神社は、古郡孫太夫が堤防工事の完成を願い社殿を造営した。
境内には、富士山道標・富士川渡船場跡碑・常夜燈・馬頭観音などの石造物、八幡宮・天満宮の境内社がある。
水神社の先で富士川に架かる富士川橋を渡っていく。
橋の右手に富士山が見えるところだが、生憎雲がかかり全く見えなかった。
富士川を渡り魚善と芦川洋品店の間から急坂を登って行くと右手に日蓮宗の岩正山光栄寺がある。
光栄寺は、天正10年(1582)中郷山等覚寺を退隠した本泉院日正が、岩淵字大畑に堂宇を建てて 「法華堂」 と名付けたことに始まるという。境内には、南無日蓮大菩薩碑・南無妙法蓮華経題目碑などがある。

秋葉山常夜燈 清源院 小休本陣跡 常夜燈
光栄寺を出て坂道の突当りを左に進むと右手に嘉永6年(1853)の秋葉山常夜燈がある。
写真は逆光のため振り返って撮影している。
秋葉山常夜燈の直ぐ先右手の路地を上って行くと曹洞宗の曹渓山清源院がある。
参道脇には、六地蔵尊・庚申塔・南無阿弥陀仏碑などの石造物がある
境内奥からは天満宮への鳥居がある。
枡形を抜けると右手に小休本陣常盤家の黒塀が続いている。
常盤家は、江戸時代初期から富士川右岸の岩淵村で渡船名主を務めてきた。岩淵は、東海道吉原宿と蒲原宿の間に位置する間宿で、常盤家は小休本陣の役割を果たしていた。
ここは女優常盤貴子の実家である常盤家所有のもので国の有形文化財に登録されている。
小休本陣跡の先の十字路角に常夜燈が建っている。

八坂神社 新豊院 岩淵の一里塚跡 顕彰碑
j常夜燈の奥に八幡神社の鳥居があり、社殿はここから西へ200mほどの東名高速道を潜った先にある。
創建は
慶長7年(1602)と云われ、明和元年(1746)に焼失し、 寛政7年(1795)現在地に遷座している。京都祇園社の流れを汲む神社である。社殿の隣には東海道往来の旅人の富士川渡河の安全と住民の水難を免れることを願って祀られたという水神宮がある。
街道に戻ると右手に曹洞宗の光福山新豊院がある。
新豊院は、正治元年(1199)真言宗光明山心包院として創建され、天文4年(1535)曹洞宗に改宗した。
山門は薬医門で、境内には元禄14年(1701年)の六地蔵尊・火伏地蔵尊・洗い大日如来・聖観音像菩薩などの石造物がある。
新豊院の先で街道が直角に曲がるところに岩淵の一里塚跡がある。
この地は、岩淵村と中之郷村の村境で、付近には岩淵名産「栗ノ粉餅」を売る茶店が並んでいたという。
ここは江戸日本橋から数えて37里目の一里塚である。
一里塚跡を過ぎるると富士川第一小学校手前の右角に若槻武樹翁顕彰碑がある。

道標 お杓子神社 秋葉山常夜燈 慈林寺
街道を進むと右手路地角に南無大悲観世音菩薩と刻まれた道標がある。
これは川坂観音堂への道標である。
道標脇の路地を入って行くとお杓子神社の小さな社殿がある。
社殿の横には、火袋部分に地蔵尊を刻んだ石灯籠が建っている。
街道を進むと左手の民家の塀の前に文政2年(1819)の秋葉山常夜燈が建っている。 秋葉山常夜燈の先の十字路を右折ると右手に曹洞宗の松本山慈林寺がある。
境内には梵鐘を吊るした放光殿・富士市指定天然記念物のイヌマキの大木がある。

常夜燈 等覚寺 宗清寺 富士川駅
街道が緩やかに左カーブする手前の新町本町区防災倉庫の前に常夜燈が建っている。 常夜燈の先の上り坂にY字路があり街道は右に進むが、左に下って山裾を回り込むような所に日蓮宗の中郷山等覚寺がある。
等覚寺は、正応元年(1288)に宗祖日蓮上人の御弟子・治部阿蘭梨日位上人の開基による富士川以西で最初の道場といわれている。
境内には子育ての神である鬼子母神を祀った鬼子母神堂がある。
等覚寺の隣に曹洞宗の浄厳山宗清寺がある。
慶長2年(1597)浄巖守清和尚が諸国巡錫の途中に中之郷村に寄り、この地に堂宇を建立したのが始まりと云う。
境内には、寛政9年(1797)の笠被り地蔵尊があり、傍らには十一面千手観音菩薩像がある。
宗清寺から富士川駅出て本日の街道歩きは終了した。

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