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東海道   (清水~府中)


平成28年3月23日(水) ☁|☀  清水~府中  12.8㎞
JR清水駅を6時30分に出発し、昨日の続きの水神社手前の交差点から街道歩きの開始である。今日は帰京するため清水(江尻宿)から静岡(府中宿)までの短い距離であり昼頃には到着する予定である。

サッカーの銅像 江尻宿中心 魚町稲荷神社 稚児橋
JR清水駅前ロータリーにサッカーをする三人の銅像がある。 水神社の手前から巴川に沿って西に進む通りが江尻宿の中心にあたる。
街道の面影は無くきれいに整備されている。
先に進むと江尻宿の案内板や解説があり、歩道にはお花やオブジェなどがある。
街道を進み魚町交叉点を直進した突き当たりに魚町稲荷神社がある。
永禄12年(1569)武田信玄が江尻城を築き、その後、天正6年(1578)当時の城将穴山梅雪が城を大改築した際、江尻城の鎮護の神として祀ったのが魚町稲荷神社と言われている。
境内には明治天皇御東行御遺蹟碑・日本少年サッカー発祥の碑がある。
街道に戻って魚町交差点を左折すると巴川に架かる稚児橋がある。
慶長2年(1597)徳川家康の命により、初めて巴川に橋が架けられ、その渡り初めの際、川の中から一人の童子が現れ橋脚を登り、忽然と入江方面へ消え去ったという。それが 「巴川に住むカッパ」 として伝えられている。橋の親柱には稚児像・カッパの像が建てられている

高札場跡 かっぱの腰掛石 白髭神社 法岸寺
稚児橋渡り詰め右手に高札場跡がある。
正徳元年(1711)河川交通の重要な場所であった巴川畔に 「船御高札」 が御下
(さげ)渡しされた。高札は明治の初めに取り払われた。
稚児橋渡り詰め左手にかっぱの腰掛石がある。解説碑によると、平成3年秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った時、5つの石が掘り出され、稚児橋の河童伝説に因み河童のこしかけ石と呼ばれる様になったという。
この石は、駿府城を築くため、伊豆から運んだ時に巴川に落ちたものと言われている。
先に進んで入江一丁目交差点を右に入ると白髭神社がある。
創建年代は不詳であるが、当初この地に神功皇后を勧請して大渡里明神として祀り、その後、式内宿禰命や各神を合祀して産土神として祀ったものである。境内には巴川のカッパ伝説にちなみ河童明神が祀られている。
街道に戻ってY字路の入江二丁目交差点を右に進んで行くと、程なく左手に浄土宗の紫雲山江照院法岸寺がある。法岸寺は、寂蓮社得誉源阿然公上人による開山で、延徳2年(1490)同上人に帰依した今川一族の者が、母の追善供養のために創建したと云われている。境内には浄瑠璃 「朝顔日記」 深雪のモデルといわれる正廣院殿永安種慶大姉(1642没)の墓がある。

東明禅院 慈雲寺 江尻宿木戸跡 追分道標
法岸寺を過ぎると右手に臨済宗妙心寺派の金龍山東明禅院がある。
山門は武田信玄が巴川を利用して造った江尻城の裏門を移築したものである。門扉には武田菱を象った南蛮鉄の金具が取り付けられている。
境内には七観音像・小柴神社裏山門の鯱などがある。
東明禅院の隣に臨済宗妙心寺派の澍林山慈雲寺がある。
慈雲寺の開創後の記録は、宝永4年(1707)の震災で焼失して不詳であるが、宝暦年間(1751-63)長泉智牛和尚によって再興された。明治5年(1872)学制発布に基づき、本堂に入江小学校の前身である入江学舎が創立された。境内には、摩尼車(まにぐるま)という無垢・璃苦・如意を意味する念佛塔がある。
慈雲寺参道口の直ぐ左手に江尻宿木戸跡がある。ここは江尻宿の西口に当たる。 街道左手の追分羊羹本店の角に道標が建っている。
道標には、「是より志ミづ道」 と刻まれており、久能山・清水湊への追分である。

東泉寺 延寿院不動堂 都田吉兵衛供養塔 金谷橋
追分道標の先の左手路地を進むと東海道本線に突き当たる左手に臨済宗妙心寺派の瑞陽山東泉寺がある。開山は樹岳宗白和尚といわれ天正年間(1573-92) の創建であるが、詳細は不明である。
境内には、円筒形の日金地蔵尊・子育地蔵尊・釈迦涅槃像・不動明王像などがある。
街道に戻ると右手住宅地の中に延寿院不動堂がある。
このお堂は、室町時代末期の優美な建築様式を保つ方三間堂で、細部には江戸時代の手法が見られる。寛文8年(1688)に大内霊山寺の旧本堂を移築したものと伝えられている。
境内には、庚申堂と境内社の稲荷社がある。
街道左手のマンションの前に都田一家諸精霊供養塔が建っている。
文久元年(1861)1月15日、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすため、遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。里人が菩提を弔う人も稀なのを憐れみ、供養塔を建立したものである。
都田吉兵衛供養塔の直ぐ先に大澤川に架かる金谷橋がある。
金谷橋の手前には、東海道道標 「元追分」 があり、橋の親柱には行灯をイメージした 「追分」 が記されている。

有東坂神社 久能寺観音道道標 上原堤 「宗丹池」 上原子安地蔵堂
東海道本線の追分踏切を渡って進むと左手平川地集落の中に有東坂神社がある。
創建年代は不詳であるが、明和年間(1764-71)徳川10代将軍家治の頃、字柿ノ木田より現在地へ移築された。
境内には、村手順堂先生之碑・庚申堂・天満宮がある。村手順堂は尾張家の御殿医桜井東桂に就いて医術を習得したのち、有東坂村平川地に於いて医院を開業した。
逆Y字路の角に久能寺観音道道標が建っている。
この道標は、安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたもので、ここ平川地から有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・久能寺に至る有度山麓を通る道のことである。
道標を過ぎると左手に上原堤 「宗丹池」 がある。
この池の水は数百年に渡り近隣の田んぼに供給されてきた。池の名の 「宗丹」 は、戦国時代の武将の若き頃の名前と言う説があるが定かではない。
宗丹池の端辺りに街道に面して上原子安地蔵堂がある。
上原延命子安地蔵尊の創建は不詳ではあるが、鎌倉時代若しくはそれ以前と考えられている。永禄11年(1568)武田信玄が、駿府の今川氏真を攻める時、本隊の部将山県昌景の部隊がこの地蔵堂を中心とする上原の地に宿営布陣した記録が残っている。

千手寺 東海道道標 草薙の一里塚跡 草薙神社大鳥居
上原子安観音堂の直ぐ先左手に黄檗宗の十七夜山千手寺がある。
創建年は不詳であるが、現在ある最古の記録では慶安4年(1651)と云われる。
参道口には千手禅寺寺標があり、境内には元文5年(1740)の庚申塔・三面八臂の馬頭観音などがある。
県道407号線に合流する信号交差点右角の岩上歯科医院の前に東海道道標 「有度(うど)」 がある。 街道右手の静岡銀行草薙支店の前に草薙の一里塚跡がある。
ここには自然石の一里塚之跡碑・一里塚由来碑・巨大なタヌキ像がある。
ここは江戸日本橋から数えて43里目の一里塚である。
街道を進んで草薙川に架かる柳橋を渡ると左手に草薙神社の大鳥居がある。
草薙神社は日本武尊を祀る神社である。第12代景行天皇の御代に日本武尊が蝦夷征伐のために東国へ赴いたが、その途上に賊に襲われ、野原は火に包まれたが、日本武尊は手にした剣で周囲の草を薙ぎ払い窮地を脱したという。鳥居の下には草薙神社への道標が建っている。

鳳林寺 東光寺 熊野三柱神社 廣野神社
草薙駅前交差点を左折して一本目の道を進むと右手に曹洞宗の月光山鳳林寺がある。
元は真言宗であったが、その創建は不詳であり、正保年間(1645-48)に曹洞宗に改宗したといわれる。
境内には、正徳3年(1713)の庚申塔、嘉永2年(1849)の延命地蔵尊、如意輪観音などの石造物、推定樹齢300年のカヤの木がある。
鳳林寺から信号交叉点を二つ越えた左手に大きな葦葉達磨(ろようだるま)大師像があり、ここを左に入ると臨済宗妙心寺派の東光寺がある。
境内には問答をする道元禅師と中国の老僧の姿像、七転八起の達磨像、カエル像などの石造物がある
東光寺の裏手に熊野三柱神社がある。
創建代等は不詳であるが、社殿は鉄筋コンクリート造りで、傍らに境内社の稲荷社がある。
東名高速道のガードをくぐった先の信号交差点を左に進むとこんもりとした林の中に廣野神社がある。
創建年代は不詳であるが、御祭神は須佐之男命で、境内には推定樹齢490年の樟(くす)の木が拝殿を守るように二本立っており、天王社・八幡社の境内社がある。

秋葉山常夜燈 旧東海道記念碑 地蔵菩薩 東海道道標
街道に戻って信号交差点を渡ると直ぐ右手の民家の塀の間に秋葉山常夜燈が建っている。 街道を進んで行くと東海道本線に突き当たったところに旧東海道記念碑がある。
かつてはここから斜めに旧道があったが、東海道本線で分断され、現在は記念碑の手前から北村地下道で東海道本線をくぐって行く。
北村地下道をくぐって東海道本線脇を進み、直ぐ先でY字路を右に進むと右手の民家の庭先に小社があり、頭の欠けた地蔵菩薩と新しい地蔵菩薩が安置されている。 地蔵菩薩の先で後久川に架かる後久橋を渡って進むと右手に東海道道標 「古庄」 が建っている。

「兎餅」跡地 久應院 長沼の一里塚跡 静岡県護国神社
国道1号線に合流する左手に「兎餅」跡地と書かれた看板が建っている。ここは兎餅を売っていた吉田屋の跡地という。
兎餅は安倍川もち、追分羊かんと並ぶ駿河三大名物の一つであり、 餅菓子を売っていた茶店の店先で飼っていた兔が名前の由来になったという。看板には、名物となるきっかけとなった大田南畝が詠んだ 「耳長ふ聞き伝えきし兎餅 月もよいから あがれ名物」 が記載されている。
国道1号線に合流して長沼交差点から右手に進む旧道があり、先に進むと間もなく右手に曹洞宗の長沼山久應院がある。
境内には寛政12年(1800)の庚申塔、地蔵菩薩坐像などがある。
久應院の先左手の長沼公民館の前に長沼の一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から数えて44里目の一里塚である。
長沼駅前を通り静鉄清水線に沿って進んで行くと静鉄清水線を渡ったところに静岡県護国神社がある。
ここには護国の英霊(静岡県の英霊)7万6,227柱が祀られている。

柚木架道橋 東海道道標 法蔵寺 軍神社
かつては静岡県護国神社前から斜めに東海道本線を越えて旧道があったが、現在はこの柚木架道橋をくぐり、旧道に迂回する。 旧道に出ると右手に東海道道標 「曲金」 が建っている。
地名の由来は、直角に曲がった金尺のように整然と水田が区割されていたことから、あるいは 「真壁郷」 が 「マカネ」 となり 「マガリカネ」になったという説がある。ここは鎌倉時代の正治元年(1199)、鎌倉幕府を追われた梶原景時と一族が駿河武士団によって襲撃された場所と言われている。
西豊田小学校の隣に曹洞宗の佛国山法蔵寺がある。
境内には開祖と伝わる大原家の墓石、曲金に蔓延した疫病から村人を救わんと読経祈願した者を祀る千日地蔵尊、東海道を旅する人が祈ったという狐ヶ崎地蔵尊、如意輪観音などが安置された観音堂、江戸城大奥御中臈「浜田」の墓など歴史的なものが保存されている。
法蔵寺の隣に軍神社がある。
創建年代は不詳であるが、日本武尊が東征の際にこの地で戦勝祈願したという伝承があり、寛保4年(1744)土地の名主海野氏が社殿を再建したと言われている。祭神は武甕槌命
(タケミカヅチノミコト)と経津主命(フツヌシノミコト)でどちらも軍神である。
境内には天白神社、四社(白髭社・社国社・金山社・稲崎社)、根回り3mを超える大楠が数本ある。

曲金観音堂 清水寺 西宮神社 府中宿碑
街道を進むと変則十字路の左角に曲金観音堂がある。
ここ曲金一丁目は古来谷津山山系の南端に当たり狐ヶ崎と称し旧東海道の往還として栄え、また鎌倉幕府の武将梶原景時一族と地元武士団との合戦の古戦場でもある。この観音堂は、この古戦場に散った戦死者の諸霊供養と長年に亘る有縁無縁の不成仏霊に対する慰霊供養を併せて住民が建立したものである。
曲金観音堂の先で東海道本線の横田架道橋をくぐり、国道1号線を渡った先で横田町東交差点を右折して静鉄清水線を渡ると右手山腹に清水寺がある。
清水寺は、今川氏8代当主今川氏輝の遺命により重臣の朝比奈元長が創建した。眺望が京都の清水寺に似ていることから、この名が付けられたといわれている。境内には薬師堂、観音堂、聖天堂のほか多くの句碑がある。
街道に戻って横田町東交差点を先に進むと右手に西宮神社がある。
創建年代は不詳であるが、安政3年(1856)再建と言われ、祭神は事代主命、猿田彦命、保食神、菅原道真となっている。
県道354号線を渡ると右手に東海道府中宿碑が建っている。
府中宿の東見附は国道1号線に架かる横断歩道橋の下にあったようである。

久能山東照宮道碑 華陽院 宝泰寺 珠賀美神社
府中宿碑の斜向かいに当たる路地角に久能山東照宮道碑が建っている。
かつてはこの角に 「久能山東照宮道」 と刻まれた石碑が建っていたと解説されている。
久能山東照宮碑から北側に進むと浄土宗の玉桂山華陽院がある。華陽院の始まりは、永正9年(1512)知短上人開基による真言宗の寺で、知源院と呼ばれていたが、慶長14年(1609)徳川家康が大御所として駿河に引退し、家康の外祖母・源応尼の50回忌の法要を営んだ際、その法名から寺名を華陽院と改めた。境内には源応尼の墓と家康の五女・市姫の墓、駿府城代・安藤直之の墓がある。 街道に戻り、静岡銀行伝馬町支店の前の信号交差点を左に入ると右手に臨済宗妙心寺の金剛山宝泰寺がある。
宝泰寺は、後醍醐天皇の皇子無文元選を開山とし、雪峰禅師を中興とする。府中の臨済寺、興津の清見寺とともに駿河三刹と称されており、境内には圓明堂があり、江戸後期の漢学者山梨稲川と儒医戸塚柳斎の碑などがある。
宝泰寺の向かいに珠賀美神社がある。
珠賀美神社は、宝泰寺の鎮守・牛頭天王社として慶長19年(1614)京都所司代板倉伊賀守勝重の創建と言われ、宝暦8年(1758)現在地に移されたと云われている。
御祭神は健速須佐之男命で、誉田八幡大神と松尾大神とを併せて奉祀している。

下伝馬本陣脇本陣跡 上伝馬本陣脇本陣跡 伝馬町由来碑 西郷・山岡会見の地碑
街道左手のジェミニーズというカフェの前に本陣脇本陣跡がある。
下本陣は小倉家、脇本陣は平尾家であった。

下伝馬本陣脇本陣の先の信号交差点を過ぎると右手の眼鏡市場の前に上伝馬本陣脇本陣跡がある。
上本陣は、望月家、脇本陣は松崎家であった
本陣脇本陣跡から緩やかに右にカーブする左手に伝馬町由来碑が建っている。
途中には東海道道標 「府中宿」、上下伝馬町標柱が建っている。
伝馬町由来碑の先右手の㈱ベガサートビル前に西郷・山岡会見の地碑が建っている。
慶應4年(1868)江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、ここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われえた。
ここには、静岡市指定史跡碑・西郷山岡会見之史跡碑がある。

呉服町 竹若堂 呉服町碑 札の辻址
江川町交差点を左折すると右手に呉服町の商店街が続いている。
今川氏の時代、呉服町は駿府の本町と言われ、当時から城下の主要地域であったという。現在のように呉服町の名が使われるようになったのは、駿府へ引退した徳川家康が慶長14年(1609)に行った町割りにおいて駿府96ヵ町が定めれた時からである。
呉服町通りを進むと左手に茶商の老舗竹若堂がる。
竹若堂は、江戸町人文化が花開いた天明元年(1781)に茶と茶器の専門店として創業した。店先には、ケースに入った 「御茶所」 と書かれた招牌がある。
呉服町通りを進むと右手奥に葵区役所が見える所に 「家康公と駿府呉服町」 碑が建っている。
呉服町の町名は、家康公の「呉服所」(家康公の衣類などを用意する呉服屋)があったことに由来すると言われ、江戸時代の呉服町は一丁目から六丁目に分れており、このうち四丁目から六丁目を東海道が通っていた。当時から東海道の宿場町として、また城下町の中心地として賑わっていたという。
呉服町通りと七間町通りの交差する伊勢丹の前に札の辻址がある。
ここは江戸時代法令や掟書を掲示した高札場があったところである。ここには札之辻址碑・札之辻町標柱が建っている。
今回はここまでとして、駿府城跡を巡り、浮月楼に寄って静岡駅から帰ることにした。

教導石 駿府城跡 浮月楼 徳川家康像
駿府城跡の二の丸御門跡の近くに教導石が建っている。
教導石は、明治という新しい時代を迎え、「富や知識の有無、身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」 との趣旨に賛同した各界各層の人たちの善意をもって明治19年(1885)に建立された。正面の 「教導石」 の文字は、旧幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)の筆になり、静岡市の数少ない歴史遺産の一つとなっている。
駿府城は、徳川家康が大御所となって隠居した際に使われた城である。
慶長12年(1607),家康は、輪郭式で石垣を廻らせた三重の堀を持ち、本丸の北西には5層7階の勇壮な天守を配置した城を全国の大名に命じて(天下普請)築城させた。現在、中堀の内側にある旧二の丸と本丸が 「駿府城公園」 として整備され、また巽櫓と東御門、坤櫓が復元されて資料館として公開されている。
静岡駅の近くに料亭の浮月楼がある。
ここは最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還の後20年余を過ごした屋敷跡である。
庭園は平安神宮を手掛けた庭師・小川治兵衛の作庭による池泉回廊式の見事なものである。
静岡駅北口駅前広場に徳川家康公之像が建っている。
平成19年度に徳川家康公の駿府城入城四百年を記念し、「大御所四百年祭」 としての事業の一環として、北口駅前広場に徳川家康公像と竹千代君像を設置したものである。

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