忠霊塔

 ここは東海道興津川 「川越し」 の跡です。旅人は両岸にあった川会所で 「越し札」 を買い、連台または人足の肩車で川を越した。越し札はその日の水深によって次の表のごとく値が違い、連台越しの場合は、札四枚を要した。
 深さが四尺五寸を超すと、いわゆる 「川止め」 となった。
 但し、冬季(10月下旬から3月5日まで)は仮橋が架かり無賃で渡れた。
 川越しの人足は、興津側で36人が常備されており、大通行があると、250人以上が動員された。

  定 (天和3年=1683)
一、太股川 (42㎝)  12文
一、はさみ川(70㎝)  15文
一、横帯川 (106㎝)  24文
一、若骨川 (120㎝)  32文
一、脇水川 (150㎝)  42文

備考 天保の頃そば一杯が16文

 明治大正昭和三代にわたり、祖国の安危を憂い勇躍身をもって国難に殉じた郷土60有余の忠烈は鬼神を慟哭からしめた。
茲に幽魂とこしえに留まる此の地を卜し、芳名を
刻して遺勲を後世に伝えるために東町民の総意をもってこの忠霊塔を建立する。

川越遺跡説明

薩埵峠之絵図