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木下街道   (行徳~白井


令和2年1月20日(月)   ☀    行徳~白井    23.0㎞
木下(きおろし)街道は、銚子で水揚げされた鮮魚などを運ぶため、利根川の木下河岸から江戸川の行徳新河岸を結ぶ陸路として整備された35㎞ほどの道である。街道の途中には行徳宿、八幡宿、鎌ヶ谷宿、白井宿、大森宿が設けられた。スタートとなる行徳は、江戸時代は製塩が盛んに行われ、生産された塩は船で江戸へ運ばれた。また行徳地域には寺院が多く点在し、古くは 「行徳千軒寺百軒」 とも言われた。

 
押切稲荷神社 行徳街道標識 行徳河岸跡 田中稲荷社
東西線行徳駅から街道へ出る直前に押切稲荷神社がある。
押切稲荷神社のご神体は、十一面観世音菩薩で、今から350有余年前に鎮座していたが、度々の津波などで本殿が破壊し、ご神体は葛飾の鎌田村の長寿院に預けられていたが、大正2年12月に返還され、現在に至っている。
境内には、弁財天、浅間神社などの境内社がある。
押切稲荷神社の先で街道に突き当たると、正面に行徳街道標識が建っている。
ここから木下街道の始まりであるが、街道は行徳街道と成田街道を通って木下街道へ続いている。
行徳街道標識の脇の細い道を進み、旧江戸川に突き当たったところが、行徳河岸跡である。ここには湊水神宮が建っており、古くから地元漁師の人々に豊漁、海難除けの守り神として崇められてきた。 街道に戻って200mほど進むと、右手に田中稲荷社(通称ぽっくり稲荷)が建っている。
これはこの地の発展の礎を築いた田中幸之助を讃えて祀ったもので、傍らには、田中幸之助像と 「ぽっくり蛙」 が祭られている。

おかね塚 清岸寺 枡形道 豊受神社
田中稲荷社の右手の筋を120mほど入ると、変則6差路におかね塚由来碑が建っている。
由来碑の後ろの小さな墓地の中に、おかねを供養したと言われる寛文5年(1665)の阿弥陀如来像が建っている。吉原の遊女であった 「おかね」 は年季があけたら夫婦になる約束を交わした。数年後、年季があけて船頭と約束した場所で待っていたが船頭は現れず、おかねは病になり結婚の約束を夢見ながら亡くなってしまった。
おかね塚の前の筋を40mほど北西に入ると、左手に浄土宗の松柏山清岸寺がある。
清岸寺は、源心寺二世の行誉忠残上人により、慶長15年(1610)に創建されたと言われている。当寺は、行徳・浦安観音霊場三十三ヶ所20番になっている。
街道に戻ると、田中稲荷社の直ぐ先で枡形道となっている。 枡形道を抜けて50mほど進むと、右手筋奥に豊受神社がある。
豊受神社の創建年代は不詳であるが、本殿は元禄7年(1694)の建立と推定されている。祭神は豊受大神(とようけのおおかみ)で、境内には文政2年(1819)の石鳥居、手水石などがある。

徳蔵寺 枡形道 旧浅子神輿店 新河岸常夜燈
街道に戻って80mほど進んだ右手の筋を100mほど入った左手に、真言宗の関東山徳蔵寺がある。徳蔵寺は、天正3年(1575)、小岩の善養寺の法印権大僧都乗意によって創建された。
境内には不動堂のほか、安永3年(1774)の宝篋印塔、文政12年(1829)の手水石、如意輪観音などの石造物がある。
街道に戻ると120mほど先で、再び、見事にくねった枡形道となる。 枡形道を抜けた左手に旧浅子神輿店が建っている。室町時代末期に初代浅子周慶が創業したとされる浅子神輿店は独特な神輿造りで広く受け入れられた老舗であった。
昭和4年に上棟された店舗は、国登録有形文化財に指定されており、街道を挟んだ向かいに行徳ふれあい」伝承館休憩所がある。
旧浅子神輿店の直ぐ先の左手路地を入ると、正面の旧江戸川堤防の上に、新河岸常夜燈が建っている。
この常夜燈は、文化9年(1812)、江戸日本橋の成田講中(成田山新勝寺への講)の人々が建てたものである。当時は堤防が無く、船から降りた人々は高低差の小さな地から陸地に上がったといわれる。

笹屋うどん跡 教信寺 加藤家住宅 神明神社
街道に戻ると、直ぐ右手に安政5年(1854)に建てられたという 「笹屋うどん跡」 が建っている。笹屋には、治承年間(1177-81)に源頼朝が訪れたと言う伝承がある。
江戸時代は、陸路で来てもここに立寄らない人はいなかったと言われるほど繁盛したという。
笹屋うどん跡の脇の道を入っていくと、浄土宗の正覚山成就院教信寺がある。
教信寺は、室町時代の元亀元年(1570)、圓蓮社寂誉順公上人により信楽寺として創建され、度重なる津波などの災害を経て、昭和20年1月の大空襲で本堂・庫裡など焼失し、昭和28年8月教善寺と合併して教信寺となった。境内には、宝篋印塔、阿弥陀如来、如意輪観音などの石造物がある。
街道に戻ると、直ぐ左手に国登録有形文化財の加藤家住宅がある。この建物は、塩問屋であった加藤家が、明治初期に建てたもので、唐破風造りの玄関が特徴である。 加藤家住宅から60mほど先の右手に神明神社がある。
神明神社の創建年代は不詳であるが、ご祭神は食物を司る豊受大神で、境内には稲荷神社、水神社、三峯神社の境内社のほか、文化2年(1805)の狛犬、享和3年(1803)の手水石などがある。

横町稲荷神社 本久寺 本行徳八幡神社 田中邸
神明神社の東側に横町稲荷神社がある。
この神社は、行徳街道の裏道で権現道(徳川家康が通ったという道)と呼ばれる横道に祀られた稲荷神社である。かつては隣接する本久寺の保護下にあったという。
境内の一角には、複数の無縁供養塔が祀られている。
横町稲荷神社の北側に隣接して日蓮宗の照徳山本久寺がある。
本久寺は、室町時代末期の元亀3年(1572)本乗院日能上人によって開山された。
本堂に安置されている祖師像(日蓮上人像)は改修されているが、日蓮宗総本山身延山久遠寺第11世法主行学院日朝上人の作と言われる。
街道に戻ると、直ぐ右手に本行徳八幡神社がある。
八幡神社の創建年代等は不詳であるが、ご祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で、明治まで自性院が別当寺であった。
境内には、水神神社、八雲神社、道祖神社の境内社のほか、本殿裏に富士塚がある。
街道に戻ると、直ぐ左手に田中邸がある。
この建物は、福沢諭吉門下生の元行徳町長であった先々代の栄治郎氏が、明治初年に建てたもので、格子戸、土間、米蔵などが遺されており、現在も田中さんが居住しているという。
建物の軒下には、芭蕉句碑 「月はやし 梢に雨を 持ちながら」 が建っている。

正讃寺 浄閑寺 圓頓寺 妙覚寺
田中邸の斜向かいの路地を東に入っていくと、日蓮宗の法順山正讃寺がある。
正讃寺は、天正3年(1575)、日蓮宗本山真間山弘法寺の末寺として、華蔵院日乗上人が開創した。境内には、正保3年(1646)の南無妙法蓮華経題目碑、釈迦如来坐像などの石造物がある。
正讃寺の直ぐ北側に浄土宗の飯澤山長壽院浄閑寺がある。
浄閑寺は、芝大本山増上寺の末寺で、ここには元亀年中(1570-72)にある武士の信仰する観音堂があり、その添地に寛永3年(1626)、正蓮社鎮誉一公上人が開祖された。
山門脇には宝永5年(1708)の南無阿弥陀仏名号碑、六道が刻まれた六面塔が建っている。
浄閑寺から先には、行徳街道に並行した細い裏道があり、多くの寺が密集しているので、立ち寄って行くこととする。
まずは100mほど先に、日蓮宗の海近山圓頓寺がある。圓頓寺は、天正12年(1584)日蓮宗中山法華経寺歴世である日通上人の弟子、寂静院日圓上人の開創である。本堂には、幕末の三筆と言われた市河米庵の揮毫による山号の扁額が掛かっている。
圓頓寺の北側に隣接して日蓮宗の正覚山妙覚寺がある。
妙覚寺は、日蓮宗中山法華経寺の末寺であり、天正14年(1586)に心了院日通上人により創建された。境内には、東日本では大変めずらしい、キリシタン信仰の遺物であり、房総にただ一基の 「キリシタン燈籠(とうろう)」 がある。

法泉寺 妙頂寺 長松寺 妙応寺
妙覚寺の北側に浄土宗の真宝山法泉寺がある。
法泉寺は、元亀元年(1570)得誉上人により開創された。
現在、建物は残っていないが、徳川家康が鷹狩りに行く途中、このお寺で休憩をとった観音堂が建てられていたと言われている。境内には、夜泣き封じ地蔵尊、第十三番如意輪観世音菩薩と刻まれた石塔などがある。
権現道が寺町通りに突き当たると、その北側に日蓮宗の真光山妙頂寺がある。
妙頂寺は、日蓮聖人生存中の弘安元年(1278)日妙上人により創建された行徳で一番の古刹であり、現在地には永禄4年(1561)に移されたという。境内には、樹齢200年のサルスベリの古木があり、毎年夏に紅色の花を咲かせるという。
妙頂寺参道口の寺町通りを挟んだ斜向かいに臨済宗の塩場山長松寺がある。
長松寺は、京都紫野大徳寺の末寺で、渓山和尚により天文年間(1532-55)に開山された。当時の行徳一帯は塩場(塩田)であり、山号はこれに由来する。
境内には、六面地蔵尊、弘法大師祠、松原立伸墓銘碑などがある。
更に長松寺門前の寺町通りを挟んだ斜向かいに日蓮宗の正国山妙応寺がある。
妙応寺は、嘉禄2年(1559)、輪蔵院日忍上人により創建され中山法華経寺の末寺である。
境内には、水子観音堂、仙石の藤のほか、コの字形に七福神が祀られている。

徳願寺 常運寺 自性院 豊受神社
妙応寺の東側に通りを挟んで浄土宗の海厳山徳願寺がある。徳願寺は、はもと普光院とよぶ草庵で、浄土宗勝願寺の末寺であった。慶長15年(1610)德川家康の帰依により、新たに堂宇が建立され、徳川の徳と勝願寺の願をとって、改めて 「徳願寺」 の名がつけられ、円誉不残上人を開山に開創されたものである。
山門、経蔵、鐘楼堂は市川市指定の有形文化財で、境内には宮本武蔵供養の地蔵尊などがある。
徳願寺の向いに寺町通りを挟んで日蓮宗の題目山常運寺がある。
常運寺は、小田原北条氏の家臣野地氏、常運院日信が、中山法華経寺に金堂の大仏を奉納した代わりに本尊を授与され、元和2年(1616)に創建した。
山門も本堂も北向きに建っており、境内には出世稲荷大明神、馬頭観音、浄行菩薩などがある。
寺町通りから街道に戻ると、直ぐ左手に真言宗豊山派の神明山自性院がある。
自性院は、天正16年(1588)、法仙法師により開基となり、行徳の総鎮守であった豊受神社の別当寺であった。
墓所には、勝海舟の家で働いていた女性の墓があり、勝海舟はその死を悼んで自筆の碑を建てたという。
街道に戻ると直ぐ左手に、街道に面して豊受神社がある。
豊受神社は、金海法印という山伏が伊勢内宮の土砂を中州(江戸川区東篠崎町辺り)の地に運び、内外両皇大神宮を勧進して神明社を建立したのに始まりと言われ、行徳で一番由緒ある神社である。境内には、猿田彦大神、道祖神宮、水神宮、金刀比羅宮、稲荷神社の境内社のほか、行徳道路元標がある。

下新宿稲荷神社 正源寺 河原春日神社・胡録神社 行徳橋
豊受神社から真直ぐな街道を250mほど進むと、左手に下新宿の稲荷神社がある。
当社は、京都伏見稲荷大社の御分社の一つとして、下新宿の里の鎮守社として寛永12年(1635)に創建したと伝えられている。
境内には、稲荷社、水神社の境内社などがある。
下新宿稲荷神社の直ぐ先、左手に浄土宗の聖中山勝壽院正源寺がある。
正源寺は、後花園院の御宇、文安元年(1444)に正源上人によって開創され、その後、慶長年間(1596-1614)に減長上人が草庵を改めて一寺となしたといわれる。本堂には、正源上人が祀って以来御開帳されたことがない鎮守開運辨財天女が安置されている。境内には、弘法大師像のほか、池の中に辨財天女像が建っている。
正源寺から100mほど先の右手に河原春日神社がある。
当社は、大永7年(1527)に創建され、行徳町大字河原58番地西側に鎮座していたが、大正3年の江戸川放水路(現在の江戸川本流)工事に伴い、現在地に遷座した。
境内には、従前からあった胡録神社が隣に鎮座している。
河原春日神社の先は、大正3年の江戸川放水路(現江戸川本流)工事によって消滅している。
かつては陸続きであった道であるが、今は昭和31年竣工の行徳橋で渡っていく。
現在、隣に新しい橋が建設中で、2020年3月供用開始の予定である。

旧道口 雙輪寺 旧道 稲荷神社
行徳橋の渡詰めから200mほど北西に進んだところから旧道が復活する。 旧道に入って100mほど先の左手に、真言宗の稲荷山雙輪寺がある。
雙輪寺の創建年代等は不詳であるが、境内には大師堂、弘法大師像、弘法大師遠忌塔などがある。
雙輪寺を過ぎると、旧街道の面影を感じることが出来るややくねった道が北西に延びている。 先に進んでやや左に曲がった道の右手に稲荷神社がある。
当社は、稲荷木(とうかぎ)の鎮守社として寛永12年(1635)に創建されたと言われており、本殿には見事な彫刻が施されている。また、地名の稲荷木は稲を干す木からきているという。
境内には、天満宮、水神宮、疱瘡神などの境内社のほか、出羽三山碑などがある。

延命地蔵尊と一本松 甲大神社 市川市文化会館 JR総武本線
稲荷神社から230~40mほど進むと、京葉道路の高架脇に延命地蔵尊が建っている。
この地蔵尊は、享保12年(1727)祖先椎名茂右衛門が千葉街道と行徳街道の交わる八幡の四つ角に道標として、また通行の安全・災難除けのために建立した。一本松は、京葉道路が出来ると排気ガス等の影響により枯死し、伐採されてしまった。
京葉道路の高架下をくぐって100mほど進むと、左手に甲大(かぶと)神社がある。
甲大神社は歴史が古く、永延2年(988)にこの地に鎮座し、葛飾八幡宮の摂社で、ここ大和田村の鎮守であったという。
境内には、北向道祖神、山王社、稲荷社、天神社などの境内社がある。
先に進んで東京外環自動車道を超えると、左手に市川市文化会館が建っている。
当館は、昭和60年(1985)に開館した立派なホールを持つ施設であるが、令和4年(2022)に改修されるようである。
文化会館前の通りは、きれいに整備され、街道が通っていたとは思えない。
市川市文化会館を通り過ぎると、程なく前方にJR総武線の高架が横切っている。
総武本線は、東京駅と銚子駅間を結ぶ鉄道路線である。

葛飾八幡宮 八幡の藪知らず 東昌寺 境橋
JR総武本線の直ぐ先で旧成田街道に合流し、右折して間もなく左手に葛飾八幡宮の大鳥居が建っている。
葛飾八幡宮は、宇多天皇の勅願により京都の石清水八幡宮より勧請し、下総の国総鎮守八幡宮として鎮座したのが始まりである。参道を進むと朱色の随身門があり、その先に神門があり、拝殿へ通じている。境内には、国指定天然記念物の千本公孫樹、源頼朝駒留の石などがある。
街道に戻ると直ぐ右手の竹林前に不知八幡森(八幡の藪知らず)がある。
竹林一帯は広さ300坪、北側は千葉街道、東西南は民家と接ししているが、かつてはもっと広かったと言われている。玉垣の中に不知森神社があり、境内に安政4年(1857)の不知八幡森碑が建っている。この森は一度入ったら二度と出られないと語り継がれてきた。
街道を300mほど進むと、左手に曹洞宗の浅間山東昌寺がある。
東昌寺は、天正年間(1573-92)太誉和尚が創建し、当初は八幡6丁目付近にあったが、寛永元年(1624)万明和尚が現在地に移したと言われている。
墓所には戊辰戦争の際に、八幡で戦死した官軍兵士3名の墓があるという。
街道に戻って市川インター入口交差点を超えると、真間川に架かる境橋がある。
真間川は全長8.5㎞で、千葉県西部で江戸川から分かれ、流路の大半は市川市を流れ、下流で東京湾に注いでいる。真間川は、かつて境川と呼ばれていた。境橋の渡詰めには、坪井玄道生誕の地説明がある。坪井玄道は、日本における戸外遊戯の必要性を説いて、海外スポーツの普及に努めた明治時代の体育学者である。

常開寺 旧家 高石神社 深町坂
先に進み鬼越郵便局を過ぎると、信号交差点の左手に日蓮宗の塚原山常開寺がある。
常開寺の創建年代等は不詳であるが、
参道口には享保18年(1733)の南無妙法蓮華経題目碑があり、境内には日朝堂などがある。
街道に戻ると程なく鬼越二丁目交差点の右手にレンガ造りの旧家がある。
この向かいの道が木下街道で、交差点角に木下街道の標識が建っている。
鬼越二丁目交差点を左折すると、直ぐ左手の高台に高石神社がある。
高石神社の創建年代等は不詳であるが、中山法華経寺文書によると、永享3年(1431)の記録に社名が出てくることから、創建はそれ以前と推定されている。
境内には、明和4年(1767)の常夜燈があり、本殿の裏手には日枝神社がある。
直ぐ先で京成本線の踏切を渡って進んでいくと、次第に坂道となり、台地へ続く深町坂が暫く続いている。
この道には、明治時代から大正時代にかけて東葛人車鉄道(とうかつじんしゃてつどう)が、この先の鎌ヶ谷まで通っていた。人力で車両を押して行のだが、さすがにこの深町坂は馬が引き上げていたという。

東山魁夷記念館 旧家 白幡神社 船橋法典駅
深町坂を登り切った右手に東山魁夷記念館が建っている。東山魁夷は、昭和20年(1945)から平成11年(1999)に逝去するまで、市川市に住んでいた。
この建物は、東山魁夷の芸術等に影響を与えた留学先のドイツの建物をイメージしたという。
先に進むと左手に植栽が一際目を引く、旧家が建っている。
旧街道を偲ばせる風景である。
どんどん進んで北方(ぼっけ)十字路交差点を渡ると、左手に赤い鳥居が目立つ白幡神社がある。
白幡神社の由緒等は不詳であるが、境内には「従是左中山法華経寺道」 と刻まれた、享保16年(1731)の南無妙法蓮華経題目碑が建っている。
白幡神社から700~800mほど先に、JR武蔵野線の船橋法典駅がある。
船橋法典の名前は、かつてこの付近が法典村だったことに由来するが、村名の法典の由来については不明である。

七面堂 法宣庵 藤原観音堂 藤原神明社
船橋法典駅を過ぎると、程なく左手の段上に七面堂がある。
七面堂は、再建記念碑によると開創の年代は不詳であるが、天和貞享(1681-16871)の頃、妙達という尼僧がこの地に草庵を結んだことが始まりという。境内には、安永7年(1778)の青面金剛の庚申塔や南無妙法蓮華経題目碑などの石造物がある。
七面堂から400mほど進んだ左手に法宣庵がある。街道に面して南無妙法蓮華経題目碑が建っているが、参道の先は墓所だけで堂宇は建っていない。
参道には、地蔵菩薩、青面金剛の庚申塔などの石造物がある。
法宣庵から程なく、左手に赤い屋根の藤原観音堂が建っている。この観音堂に祀られる観音様は、身代わり観音と呼ばれる船橋市の有形文化財である。観音像は、33年に一度御開帳される秘仏という。この藤原観音堂のある地は、剣豪宮本武蔵が、奥羽を巡って常陸路を江戸へ向かう途中、この地で父を亡くした少年伊織とめぐり会って、荒野を開拓したと言われるところである。 藤原観音堂から240~50mほど先の左手に、藤原神明社がある。
藤原神明社は、本行徳の鎮守神明社を分祀したもので、もとは小字上郷に鎮座していたが、火災・老朽等により明治32年(1899)に現在地に遷座したという。
境内には、文久2年(1862)の石燈籠、手水石、神明社由来碑などがある。

東武野田線 馬込天満宮 戊辰戦争官軍兵士の墓 清長庵
街道をどんどん進み、藤原神明社から1.5㎞ほどのところで、東武野田線の踏切を渡る。
踏切の左手は、馬込沢駅である。
東武野田線は、埼玉県さいたま市の大宮駅から千葉県柏市の柏駅を経て、船橋市の船橋駅を結ぶ鉄道路線である。
踏切の先右手に、馬込天満宮の大きな看板が見えている。
東武野田線の踏切を渡った右手段上に、馬込天満宮がある。
馬込天満宮は、延宝2年(1674)、藤原正清が一族を率いてこの辺りを開墾し、上山新田と名付けた折、天満宮を建立し、上山新田村の鎮守にしたのが始まりと言われている。階段を上がると冠木門があり、境内には子安鬼子母神、三峯神社、稲荷社の境内社があり、奥には庚申塔、二十三夜供養塔、猿田彦大神などの石造物がある。
馬込天満宮から600mほど先の馬込十字路を渡ると、左手に無縁塔が建つ小さな墓所があり、無縁塔の他には7つの墓石が建っている。この中に戊辰戦争の官軍兵士・佐土原藩士常吉の墓がある。
傍らには、南無妙法蓮華経題目碑、稲荷大明神碑などがある。
先に進んで街道が緩やかな登り坂になると、船橋市から鎌ヶ谷市に入り、坂の途中の右手に宗教法人清長庵がある。
清長庵の創建年代等は不詳であるが、境内には鎌ヶ谷市指定有形文化財の道標を兼ねた地蔵尊のほか、大師堂、馬頭観音、寛政8年の(1796)の青面金剛の庚申塔などがある。

木下街道 疱瘡神 延命寺 駒形大明神
坂道を登り切った先を進んでいくと、車の往来はあるものの、旧街道らしい町並みを所々で感じることが出来る。 清長庵から700mほど進んだ信号T字路を右に150mほど入ると、左手に疱瘡神がある。
境内の由来碑によると、昔、この辺りに疫病が流行り、村人がここに疱瘡神と青面金剛王の両神碑を建ててその蔓延を防いだという。
街道に戻って先に進むと、右手に日蓮宗の常得山延命寺がある。
延命寺は、寛永年間(1624-44)に一乗院日正上人により、市川中山法華経寺の末寺として建立された。新京成線の鎌ヶ谷大仏駅近くの飛び地には、安永5年(1776)の鎌ヶ谷大仏がある。境内には、安永9年(1780)の南無妙法蓮華経題目碑、寛政2年(1790)の如意輪観音などの石造物がある。
延命寺から250mほど先の左手電柱に原沢医院の案内板ガあるが、この筋を100mほど入ると右手に駒形大明神がある。
駒形大明神は馬の守護神であり、古来から馬子の守護神として篤い崇敬を集めた神社である。ここは江戸幕府の馬の牧場を管理した清田家の墓地であり、江戸からの帰途に暴れた馬を切り、その首を葬って祠を建てて冥福を祈ったと伝えられている。

清田家の墓地 鎌ヶ谷大仏駅 鎌ヶ谷八幡神社 鎌ヶ谷大仏
駒形大明神の隣に清田家の墓地があり、清田家累代の墓石が沢山並んでいる。
清田家は、江戸幕府の命を受け、江戸時代初期から牧士を世襲し、13代にわたって牧の管理を行ってきた。清田家に伝わる史料(草深清田家史料)によると、清田家は寛永6年(1629)に葛飾郡古作村(現船橋市)より、ここ鎌ヶ谷の地に移り住み、原地(はらち)を開発したと記されている。
街道に戻ると直ぐ先、右手に新京成線の鎌ヶ谷大仏駅がある。
新京成線は、千葉県松戸市の松戸駅と千葉県習志野市の京成津田沼駅間を結ぶ、路線距離26.5㎞の鉄道路線である。
鎌ヶ谷大仏駅の北側に隣接して、鎌ヶ谷八幡神社がある。
鎌ヶ谷八幡神社の創建年代は不詳であるが、境内の由緒によると鎌倉政権の八幡信仰の広がりを背景にして、この地に勧請されたと言われる。祭神は誉田別尊を祀り、境内には妙正大明神、天満宮、稲荷大明神、浅間神社、三峰神社、古峯神社等の境内社のほか、百庚申や庚申道標などの石造物がある。
鎌ヶ谷八幡神社の街道を挟んだ斜向かいに鎌ヶ谷大仏が鎮座している。
ここは先に寄った延命寺の飛び地であり、この大仏は、安永5年(1776)鎌ヶ谷村の豪商福田文左衛門が、先祖供養のために建てたものである。
開眼供養の際には、街道約3町(327m)を50余人の僧侶が音楽に合わせて練り歩いたと伝えられている。

魚文句碑 旧道口 石祠 天神社
鎌ヶ谷大仏から300mほど先のY字路中央に、道標を兼ねた明和元年(1764)の魚文句碑が建っている。
魚文は、松尾芭蕉の高弟服部嵐雪の直系大島蓼太の高弟で、三級亭魚文と称し、江戸後期に蕉風復活に力を尽くした人物である。この句は 「ひとつ家へ人を吹き込む枯野かな」 と刻まれ、魚文が鎌ヶ谷を通ったときに詠んだ句である。句碑の隣の石碑は、大正14年(1925)の村道改修記念碑である。
魚文の句碑が建つ交差点の右手に、これまで歩いてきた県道59号と並行する旧道がある。住宅街の中を通る緩やかにうねる道だが、ほぼ直線で1.8㎞ほど続き、再び、県道59号に合流している。 県道59号に合流して700mほど進むと、街道がやや左に曲がる角地にある高橋土木建材の手前に小さな石祠が建っている。
石祠は風化が進んで何が祀られたものか不明であるが、左面に明和5年(1768)戌子9月と刻まれている。
先に進み左手の白井ゴルフ場を過ぎると、直ぐ先に天神社がある。
天神社の創建年代等は不詳であるが、境内には三峯神社、石祠、白井新田村造四百年記念碑、子安観音、琴平宮参拝記念碑のほか、たくさんの庚申塔、馬頭観音などの石造物がある。

分岐 白井大橋 道標 白井駅入口
天神社から800mほど先に進むと、左は県道189号で印西の標識が建ているが、街道は県道59号で真直ぐ進んでいく、 程なく北総鉄道(京成成田空港線乗入)の上を跨ぐ白井大橋がある。
北総鉄道(京成成田空港線乗入)はかなり低い窪地を通っているので、明治初期から中期にかけて作成された歴史的農業環境閲覧システムで当時の地図を見たが、谷のような地形は確認できなかった。
白井大橋から300mほど先の左手筋角に大正5年(1916)の道標が建っている。
正面の文字ははっきり確認できないが、「○○記念」 と刻まれ、左側面に東西南北の地名が刻まれている。
直ぐ先の白井テニスクラブの所に白井駅への標識が建っている。
本日はここで終了し、ここから北総鉄道の白井駅に出て帰宅の途に就いた。白井駅は窪地の両側から伸びる橋の中央に駅舎がある。

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