魚文は三級亭魚文と称し、芭蕉の高弟、服部嵐雪の直系大島蓼太の高弟で、1700年代(江戸後期)の蕉風復活に力をつくした人です。平明な俳風に特色があり、師の蓼太も 「筑波紀行」 などを書いているので、魚文も師と同様に旅に出て、途中鎌ヶ谷を通過したときにこの句を詠んだものと思われます。(芭蕉-服部嵐雪-桜井吏登-大島蓼太-魚文)
 木下街道は江戸時代、江戸から下総・常陸に至る道筋として、特に下利根川方面に直行できる最短路として貴重な脇往還で、行徳河岸(現市川市)と木下河岸(現印西市)の全長約9里(約36㎞)を結んでいました。江戸時代、主要街道以外は定まった名称はなく、通行者の目的より異なった名称で呼ばれ、木下街道も 「鹿島道」「銚子道」「印西道」「江戸道」「行徳道」 など様々に呼ばれていました。俳人松尾芭蕉が 「鹿島紀行」 を著した貞享4年(1687)の旅もこの道筋を通ったといわれています。文化・文政(1804~30)頃からは香取神宮、鹿島神宮、息栖神社の 「三社詣」 や銚子、下利根川観光のため、一般民衆の往来が活発化し、多くの文人墨客も通りました。
 江戸時代の画家、渡辺崋山の 「四州真景図」 の 「釜原」 の図は文政8年(1825)鎌ヶ谷宿を通った折にスケッチしたものといわれ、鎌ヶ谷市役所市民課前のロビーにタイルで復元されています。
 文化2年(1805)刊行の 「木曽路名所図会」 第五巻の 「釜ヶ原」 には鎌ヶ谷大仏や魚文の句碑、また、当時この付近は幕府直轄の馬牧であったため、野馬が戯れる様子が描かれ、この頃の周囲の様子を知ることができます。
 なお、左側の石碑は、大正14年(1925)の村道改修の碑です。

 

明和元年武陽産高橋氏建立 (裏面)

(左面)

(正面)

(右面)

右 木をろし道

ひとつ家へ人を吹き込む枯野かな

道標を兼ねた明和元年(1764)の魚文の句碑

魚文の句碑説明

大正14年(1925)の村道改修記念碑

左 中木戸道