江戸幕府はその軍事力を誇示し、全国支配を継続する一環として軍馬を安定的に確保するために直轄の牧を設けました。牧の管理は地元の有力農民から選ばれた牧士が中心となって行っていました。清田家は、江戸時代初期から牧士を世襲し、13代にわたって牧の管理を行ってきました。清田家に伝わる史料(「深草清田家史料」)によると、清田家は寛永6年(1626)に葛飾郡古作村(現船橋市)より、この鎌ヶ谷の地に移り住み、原地を開発したとあります。
近世の鎌ヶ谷村は、木下街道の宿場として栄え、近隣の宿場へ荷物の継ぎ立てを行う、交通で重要な場所の一つでした。行徳と木下の船着場をつなぐ道筋として木下街道が整備されたのは、寛永8年(1631)です。鎌ヶ谷村も、このころには町並みが形成されて成立したと考えられています。鎌ヶ谷宿成立時の町並みは、鎌ヶ谷大仏墓地および鎌ヶ谷八幡神社付近から延命寺付近までの範囲でした。(鎌ヶ谷市教育委員会)
清田家の墓
南無妙法蓮華経題目碑ほか
清田家の墓説明
清田家の墓
清田家の墓
清田家累代供養塔