天保12年(1841)11月から13年(1842)3月にかけて建てられた百庚申

文化5年(1808)の手水石

稲荷大明神 ・ 天満宮 ・ 妙正大明神

手水舎

台座左右にそれぞれ 「東さくら道」 「西こがね道」 と刻まれている。日光へ続く日光東往還へ通じる小金佐倉道と木下・行徳を結ぶ木下街道の交わる十字路(現在の大仏十字路)に建っていた。

浅間神社

古峯神社 ・ 三峰神社

 当社の御祭神は、八幡大神と申し上げ誉田別尊を奉祀する。
 八幡信仰は九州の宇佐八幡宮に始まり、天平勝宝元年(749)東大寺大仏の完成を機に、東大寺の鎮守(手向山八幡宮)として、都に進出し、平安京に都が移ると(794)京都の石清水八幡宮に勧請された。朝廷の信仰も篤く、殊に永承元年(1046)源頼信が八幡大神を清和源氏の氏神としたので頼朝時代には神々の中でも八幡大神のみが特に崇敬され、「廻国雑記標註」 にも記されてるように広く武人が守護神として尊宗するようになった。
 頼朝が鎌倉に幕府を開き、鶴岡八幡宮を中心に祭政一致を理想として諸国に守護、地頭を置くに及んで中央より遠い地に補任された者ほど、源氏に因縁浅からぬ八幡大神を任地官衙の傍らに勧請して一社を営んだ。
 鎌倉幕府は延喜の制、下総小金五牧を踏襲し、新政のもと牧場野付の村に御家人、馬役人を配置執務せしめたが、これらの人々も朝夕兵馬の健全と武運長久を八幡大神に祈った。
 鎌ヶ谷でもこの例に洩れなかったのであろう。当八幡神社もこうした八幡信仰の広がりを背景にして此の地に勧請されたものである。当社の創建年代は諸説あるも不詳、当地区は奈良、平安の昔より近世に至るまで世々天領なりしため差配宰領する者の交代縷々にして文書記録が任者と共に四散し、史実伝承は世情人心の変遷によって風化し、今俄に断定することはできない。
 当社は古来兵馬守護の武神として新越されたが、地元の人々の生活と結びついて勝運繁栄、子育て、安産の神として現在でも多くの人々の崇敬を受けている。
 大祭は、10月15日盛大に執行する。

寛政7年(1795)の青面金剛の道標を兼ねた庚申塔

天保4年(1833)の青面金剛の庚申塔

文化2年(1805)の青面金剛の庚申塔

左から安政5年(1858)の青面金剛王、明治34年(1901)の二十三夜塔、帝釈天王、文化6年(1809)の二十三夜塔

鎌ヶ谷八幡神社由緒

享和3年(1803)の鳥居
 (境内の樹木は全て伐採されている)

鎌ヶ谷八幡神社拝殿

拝殿に掛かる八幡神社の扁額

明るい参道