徳願寺はもともと普光院とよぶ草庵で、浄土宗勝願寺の末寺であった。慶長15年(1610)徳川家康の帰依により、新たに堂宇が建立され、徳川の徳のと勝願寺の願をとって、改めて 「徳願寺」 の名がつけられ、円誉不残上人を開山に開創されたものである。
 本尊阿弥陀如来像は、かつて源頼朝の室政子が、仏師運慶に命じて彫刻させたものといわれ、徳川家康が二代将軍秀忠夫人のため、鎌倉から江戸城に遷したが、夫人の逝去後、当山二世中残上人が請けて本尊としたものである。そして、三代将軍家光からは本尊供養料として、慶安元年(1648)朱印十石が与えられた。
 本堂は安政3年(1856)火災により焼失、大正5年(1916)に再建されたが、山門に安置する二王像等の彫刻物は、明治維新の際、葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺から移されたものである。他に輪堂式経蔵や身代観音堂があり、本堂には湛慶作と伝える閻魔大王像が安置されている。
 また、本寺には文化4年(1807)江戸深川の永代橋墜落による溺死者の供養塔や、宮本武蔵供養のための石地蔵をはじめ、武蔵筆と伝える書が、丸山応挙筆とつたえる幽霊の絵などが寺宝として保管されている。
 明治4年(1871)12月、印旛県庁が一時本寺に置かれたことがあり、更に明治6年(1873)行徳小学校が、本寺を仮校舎として誕生している。  (市川市教育委員会)

 江戸へ向かう武蔵が、徳願寺の土地である藤原観音堂の建つ船橋市藤原の地で父を亡くした少年伊織とめぐり会って荒野を開拓した伝説が伝わっている。

安永4年(1775)頃建築の鐘楼堂

宮本武蔵を供養する石地蔵

六地蔵尊

観心堂

観心堂の観世音菩薩立像

観心堂の閻魔大王像

阿形の仁王像

大黒天

吽形の仁王像

多聞天 (毘沙門天)

徳願寺由緒

仁王門の山門

山門に掛かる海厳山の扁額

経蔵の一切経を納める回転式八角輪堂

明治20年(1887)建築の経蔵

徳願寺本堂