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木下街道   (白井~木下


令和2年1月21日(火)   ☀    白井~木下    11.0㎞
本日も終日好天に恵まれそうなので、昨日の続きで、白井宿から大森宿を経て、終点の木下宿(木下河岸)まで街道歩きを続けることとした。木下の地名は、竹筏から木を下すことから、その名が付いたと言われている。木下河岸は、竹袋村の小字名で、利根川の渡し場として成立したが、明暦年間(1655-57)に河岸場として発達して行った。最盛期には50軒余りの旅籠屋や飲食店が軒を連ねていたという。

白井駅 石塔群 天満宮 菅原道真公像
午前7時50分は既に通勤通学のピークを超えているのか、白井駅は人がまばらであった。 7~8分で街道に出て県道59号を進むと、白井市立白井第一小学校の向い側段上に石塔が数本建っている。
文化12年(1815)の南無阿弥陀仏名号碑、明治35年(1902)の馬頭観世音供養塔などの石造物である。
石塔群から500mほど先の東京環状道路(国道16号)の手前右手に天満宮がある。
天満宮の創建年代等は不詳であるが、境内には昭和7年(1932)の手水石、狛犬などがある。
東京環状道路(国道16号)を渡って150mほど先の左手民家の入口に菅原道真公像が祀られている。

石橋源四郎頌徳碑 そろばん博物館 馬頭観音 秋本寺
直ぐ先の白井児童館の入口脇に石橋源四郎頌徳碑が建っている。
石橋源四郎は、戦後の公選制による最初の白井村長で、大正時代から戦前にかけて農民運動で活躍した政治家である。
白井児童館に近接して白井そろばん博物館が建っている。
そろばん博物館は、日本に伝わって460有余年の歴史があるそろばんを、生活や教育文化などの各方面から研究すること、また地域活性化としても貢献することを目的として展示・活動をしているという。
そろばん博物館から70~80mほど先の三叉路左手に馬頭観音が建っている。
馬頭観音の周囲には、妙法、馬頭などと刻まれた小さな石碑が土に埋もれている。
馬頭観音の三叉路の直ぐ先左手に、日蓮宗の白井山秋本寺がある。
秋本寺は、秋本太郎左衛門尉勝光によって開基となり、嘉元元年(1303)に開山した。境内は白井保育園となっているため、自由に境内に踏み込めない。

街道町並み 鳥見神社 八幡宮 みたらしの池
秋本寺の先はやや下り坂で、歩道が整備されていないため、車の往来には注意して進んでいく必要がある。 秋本寺から程なく左手の筋奥に鳥見神社がある。鳥見神社の創建年代は不詳であるが、饒速日命(にぎはやひのみこと)を祭神とし、物部氏一族の祖先とされ、物部氏が信仰していた。白井市内に7社ある。
境内には、正徳3年(1713)の白井市指定文化財の石鳥居のほか、三峯神社、小御嶽石尊大権現、諏訪大明神、天満宮、氏神神社などの境内がある。
鳥見神社の東側に隣接して八幡宮がある。
八幡宮へは鳥見神社から直接行くことが出来ず、街道に出て回り込むように階段を上っていく。八幡宮の由緒等は不詳であるが、拝殿には小社が祀られている。
街道に戻り70~80mほど先の本白井郵便局の向いの筋を100mほど入り、右手筋を田畑の方に下って行くと、みたらしの池と弁財天がある。
ここは古くから信仰の地で、五穀豊穣・無病息災・眼病治癒に効果があるとされ、昔は池の水で眼を洗ったり、近くにある鳥見神社の祭礼の際には、池の水でご飯を炊いたという。池の畔の祠には、元文3年(1738)の銘が刻まれた石造の弁財天が祀られている。

旧家 伊勢宇橋碑 白井橋 地蔵堂
街道に戻ると旧街道らしい佇まいの旧家が立ち並んでいる。 旧家を過ぎると、左手に伊勢宇橋碑、神崎川土地改良記念碑が建っている。
伊勢宇橋碑には、「伊勢宇橋八十六ヶ所目」 と刻まれている。この碑を建てた 「伊勢屋宇兵衛」 は、江戸時代の醤油問屋の大商人で、亡き父の供養のために、江戸近郊の100ヶ所に石橋を架橋したと言われている。また、先に寄った八幡の藪知らずにあった 「不知八幡森(しらずやわたのもり)碑」 も伊勢屋宇兵衛が建てたものである。
伊勢宇橋碑の直ぐ先に、神崎川に架かる白井橋がある。かつて、この神崎川に架かる橋が伊勢宇橋八十六ヶ所目であったのだろうか。神崎川は、千葉県白井市富士にある八幡神社付近に源を発し、下流で新川(印旛放水路)に注いでいる。 白井橋を渡りその先の坂道を登っていくと、途中、右手に地蔵堂がある。
地蔵堂には、宝暦8年(1758)の小さな地蔵尊が安置されている。

庚申塔 神々廻 道祖神 鳥見神社
坂道を更に登っていくと、左手の林の中に赤く塗られた庚申塔が8基並んでいる。
古いものは、宝永3年(1706)の庚申待成就塔、延享3年(1746)・宝暦5年(1755)の一面六臂の青面金剛の庚申塔で、新しいものは平成6年(1994)の文字庚申塔まである。
坂道を登り切ったT字路信号交差点を超えたところに神々廻(ししば)バス停がある。
神崎川から東の地区が神々廻という地名であるが、難読地名の一つと言われている。地名の由来は不詳であるが、江戸時代から明治まで神々廻村としてあったようである。
神々廻バス停は街道の両側にあるが、右手のバス停の脇に、そろばんを抱えた男女双体道祖神が建っている。
この場所は、高橋植物園の入口でもある。
神々廻バス停の先の右手筋を250mほど入り、デイサービス施設の前の十字路を左折して行くと、左手に鳥見神社がある。
鳥見神社は慶長7年(1602)に創建され、饒速日命(にぎはやひのみこと)、日本武尊を祭神としているようである。境内には、八坂神社・八幡大神の境内社のほか、石裂大神碑、出羽三山碑などがある。

街道並み 馬頭観音 真直ぐな街道 香取神社
街道に戻ると周囲に建物はあるものの、並木が続くところもあり、街道の雰囲気はある。 先に進み左手の松戸市営白井聖地公園への標識が建つ入口に、明治・大正・昭和の3基の馬頭観音が建っている。
この内、明治41年(1908)のものは、「左ひらつかみち・右うらべみち」 と刻まれた道標を兼ねた馬頭観音である。
馬頭観音を過ぎると、街道は東に向かって真っすぐ延びている。 どんどん進んで左手の白井バス車庫前を過ぎ、更に進むと左手に香取神社がある。
ここの地名は十余一(とよいち)といい、11番目の開墾地を意味しているという。香取神社の創建年代等は不詳であるが、社殿は塚上に建っており、斜面に伊勢神宮参拝記念碑、庚申塔、聖徳太子碑などがあり、塚の東側には大師堂と観音堂がある。

南無阿弥陀仏名号碑 迂回路 旧道復帰 庚申塔群
香取神社から500mほど先のY字路交差点の右に、石塔群が建っている。
一番大きい石塔は、南無阿弥陀仏名号碑で、側面には 「大もりむらみち・ふさむらみち」 と刻まれ、道標を兼ねていた。
傍らには、地蔵菩薩像、嘉永6年(1853)の道祖神などの石造物がある。
南無阿弥陀仏名号碑のところから先の木下街道は、千葉ニュータウンの造成によって3キロほど消滅しているため、千葉ニュータウンの中の道を迂回していく。 富国生命千葉ニュータウン本社の先で県道61号を越えると、右手から旧道が復帰している。この辺りの北側には、泉新田大木戸野馬堀という、江戸時代に置かれた牧からの馬の逃亡や外部からの侵入を防ぐための堀が設置されていた。
現在は遺跡として保存され、見学することが出来るという。
街道を進むと程なく左手に庚申塔などの石塔がたくさん並んでいる。
年代はまちまちで街道筋にあったものが集められたものと思われる。

街道の風情 八幡神社 泉王寺 開発中エリア
庚申塔群の先の街道は、約500mほどの直線の道であるが、街道の風情を感じられる道である。 先に進むと左手に八幡神社がある。
八幡神社は、品陀別命(応神天皇)を祀る神社であるが、創建年代等は不詳である。
鳥居の奥に公民館があり、拝殿を兼ねたものと思い込み、それ以上踏み込まなかったが、跡で調べてみると、この公民館の裏に本殿があり、境内社の石祠などがあったようである。
八幡神社の東側に隣接して、真言宗の愛宕山泉王寺がある。泉王寺は、延宝5年(1677)に創建され、不動明王を本尊としている。
境内には天保2年(1831)の手水石、明治13年(1880)の狛犬、明治25年(1892)の弘法大供養塔などがある。
泉王寺の先で街道は直角に北上し、250mほど先の信号交差点を渡ると、街道の面影は全く消え失せ、真新しいビルが立ち並んでいる。
右手はまだ開発中で、これからビル群が建設されるようである。

ZEUS 庚申塔 庚申塔 鹿黒橋
左手に一見テーマパークか?飲食店か?と思われる看板の施設があり、よく見るとスロットの文字もあり、パチンコ屋である。
ここからは開発中エリアのような広い歩道は無く、車の往来に気を付けて進んでいく。
どんどん進んで、街道がやや右カーブした先の左手に下半分が土に埋もれた、天保14年(1843)の庚申塔が建っている。
この付近の地名は、鹿黒(かぐろ)と云い、江戸時代は鹿黒村と鹿黒新田の2村が存在した。鹿黒村と鹿黒新田は、下総国印旛郡で印西領に属していた。2村が合併して鹿黒村になったのは明治7年(1874)である。
先に進むと亀成川の手前、左手に4基の庚申塔が並んでいる。
嘉永5年(1852)の文字庚申塔、寛政7年(1795)の一面六臂の青面金剛の庚申塔などである。
庚申塔の直ぐ先に、亀成川に架かる平成11年竣工の鹿黒橋がある。
亀成川は、印西市牧の原公園に源を発し、西に流れて下手賀沼に注いでいる。利根川が東に流れるのに対し、逆に西に流れることから、逆川という通称がある。

坂道 旧道口 三峰神社 木下小学校発祥の地碑
亀成川を越えるとその先は坂道となり、大型車がすれ違うにはやや狭い道である。 坂道を登り切った信号十字路からは下り坂となり、その先の大森交差点を渡った右手から旧道が東に向かっている。 先に進むと程なく左手段上に三峰神社がある。三峰神社の創建年代等は不詳であるが、塚上には天保14年(1843)の三峰山の石祠のほかに、年代不詳の石祠と真新しい石祠が鎮座している。 先に進んで信号交差点を左折し、二本目を右折して進むと、右手の上町会館の敷地内に木下小学校・印旛高等学校の発祥の地記念碑が建っている。傍らには、印西農学校開校記念碑が建っている。木下小学校は、明治5年(1872)に開校し、明治34年(1901)に当地東側に移転した。
印旛高等学校は、昭和5年(1930)に印旛西農業学校と印西実科女学校が統合されて開校したが、平成22年に千葉ニュータウンに移転した。

上町観音堂 竹袋県道踏切 正寶院 吉岡家土蔵
上町会館の東に隣接して上町観音堂がある。この観音堂は、ここより直線で1㎞ほど南東にある三宝院に属しているという。
御堂内には、永仁5年(1297)の銅造十一面観音立像が安置され千葉県指定有形文化財に指定されている。境内には、大師堂、子安観音、印西七福神の寿老人のほか、六地蔵石塔、十九夜塔、庚申塔などの石造物が無造作に並んでいる。
上町観音堂を左折して進むと竹袋県道踏切がある。
この踏切は、成田線我孫子支線を跨ぐ踏切であり、我孫子支線は我孫子駅と成田駅を結んでいる。
踏切を渡り、道なりに東に進んでいくと、右手に山根山正寶院がある。
正寶院は、江戸時代から北向き不動尊として広く人々の信仰を集めてきたが、平成21年5月25日の不審火によって堂宇は全て焼失した。
境内には、貝化石の石燈籠、三鈷を載せた供養塔、十九夜塔などの石造物が残されている。
街道に戻ると右手に明治24年(1891)建築の吉岡家土蔵がある。吉岡家は、享保年間(1716-35)から木下河岸で代々問屋を営んだ豪商である。
現在、まちかど博物館として公開しているが、幕末から明治期にかけて活躍した吉岡七郎への引き継ぎ文書など、吉岡家に伝わる古文書は、印西市指定文化財に指定されている。土蔵の前には、貝化石の石燈籠が建っている。

水天宮 木下河岸
吉岡まちかど博物館の南に隣接して吉岡家の水天宮がある。
水天宮は、水運に関わる河岸の人々の災難除けとして、文政9年(1826)に久留米から勧請し、裏庭に建立したという。
周囲には貝化石の石燈籠、道標、吉岡翁碑、手水石などがある。
街道に戻って進み、堤防沿いの道に突き当たると、堤防上に木下河岸跡の説明版が建っている。江戸時代から明治時代にかけて木下河岸は、利根川水運の要衝の地として栄えた。明治期に入っても蒸気船の発着場として重要な役割を担っていたが、明治34年(1901)の木下駅の開業と共に次第に衰退していった。
木下街道の旅は、ここで終了である。

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