この常夜燈は、文化9年(1812)、江戸日本橋の成田講中(成田山新勝寺への講)の人々が建てたものです。成田講中が航路安全を祈願して建てたと推察されます。なお側面には協力した人々の名前が刻まれています。江戸時代、成田山新勝寺には江戸から多くの人々が参詣しました。行徳は、江戸から成田にかけての重要な中継地点でした。
 左下の図は、「江戸名所図会」 に描かれた現在地の景観です。左隅に常夜燈と思われる灯籠が建っています。江戸時代後半の記録にも、常夜燈は 「河岸に立つ」 とあります。また図には、現在のような堤防は描かれておらず、船から降りた人々は高低差の小さな地から陸地にあがったとみられます。
 そして、常夜燈付近の現在地を新河岸(船着場)とも呼びました。
 「新」 の字が示すように、元禄3年(1690)、図にあるような景観が整備されたと推察されます。また、この地から江戸に向けて船が行き交っていました。一般に、この船は行徳船と呼ばれ、江戸川を下り、新川・小名木川を経由し、日本橋小網町まで就航していました。成田講中の人々や行徳産の塩も、行徳船を利用して江戸に運ばれたようです。
 また有名な人物として、松尾芭蕉(俳人)や渡辺崋山(田原藩家老)なども行徳を訪れています。特に渡辺崋山は、「四州真景図巻」 という作品の中で常夜燈及び周辺景観をスケッチしています。
 明治時代になると、江戸川には蒸気船がみられるようになります。
 「成田土産名所尽」 という記録には、明治期以降の常夜燈周辺の様子が描かれています。常夜燈周辺が多くの人々で賑わった様子がわかります。そのため、常夜燈は江戸川を行き交う船や多くの人々の目印の役割も果たしてきたと思われます。
 平成21年(2009)、現在地周辺は常夜燈公園として整備されました。 (市川市教育委員会)

 江戸時代の新河岸(現在地)は、船で往来する人や物資などで賑わう場所で、成田山につながる成田道の起点でもありました。江戸川・常夜灯を背にして、旧行徳街道までの間は、江戸名所図会にも描かれており、その様子をうかがえます。
 この道筋には、まず番人が詰める施設と掟などが記された高札場や、旅人などが休憩をした信楽などの旅館がありました。旅館信楽は、近江国信楽出身者が行徳に移住したことに因む呼称です。信楽から道(旧行徳街道)を挟んだ向かいの建物が 「笹屋」 と言われるうどん屋です。「笹屋」 は、江戸時代の文学作品にも記され、源頼朝が訪れた伝承を残しています。
 明治時代に入り、江戸川に蒸気船が運航されると、地元では 「蒸気河岸」 とも呼ばれるようになりました。「蒸気河岸」 の発着場として、新河岸界隈は多くの人々で賑わっていました。 (市川市教育委員会)

常夜灯公園碑

旧江戸川上流方向

新河岸碑と新河岸説明

常夜燈由来碑

文化9年(1812)の常夜燈

行徳船場碑